無題。

当時は当然フィルム撮影。カラーフィルムは高いので白黒だった。
この顔が削られたのは7世紀ごろの話ですでに破壊されてはいたんだけど
の肩のあたりまでは中の石段をを通って登っていくことができた。

京都市主催「環境にやさしいライフスタイルを考える市民会議」の取材を終え会社に帰ると、で拉致された伊藤和也さんが殺害されたかもしれないというニュースが流れていた。
そして、翌朝それが事実であったことが確認された。

僕がアフガニスタンにいたのは1970年代の終わり頃。20才だった。
伊藤さんが命を落としたジャララバードは、隣国のペシャワールから陸路カイバル峠を越えて、僕が最初にたどり着いたアフガニスタンの都市だ。
も通ったと言われている、そのカイバル峠をバスで越えたんだけど、当然のようにエアコンなんてついてないし、標高差から来る気温の上下に僕の体は参っていた。

首都カブールの西にあるの石仏を一目見て、そのまま隣国のイランへ抜ける予定だった。カブールに居たのは数日間。が侵攻してくる二年前だったが、のニューデリーからヨーロッパへ抜けるの途中の都市の中では最もやばい町だとその時も感じた。ひげを生やした男たちの多くは両肩から銃をたすき掛けに掛けていた。タクシー代をぼられそうになったので文句を言うと、凄まれ、数人の男に囲まれた。
今では、無謀とも言える一人旅のようだがその頃はソ連(旧ソビエト連邦)がアフガニスタンに侵攻する前、イランには崩壊前とはいえ親米政権のパーレビ国王がいた。唯一緊張状態にあったのはインドからパキスタンに入国するときに通過しなければいけないカシミールの問題ぐらいだった。
平和だった、今に比べて世界は少なくともアジアはパックス・アメリカーナのおかげなのかずいぶんと平和だった。
今度はバスの旅ではなく、日本に帰ったら車の免許をとって、自分で運転して再びアジアハイウェイを走ってみたいなどと、いま考えるとずいぶんと脳天気な考えをしていた。恥ずかしくなるが、その時は、悪のソ連さえやっつければ世界には平和がおとずれ、世界中を旅して歩けると信じ切っていた。
まさか、自分が見てきた人類の財産と呼べるような石仏が、政治的アピールなどによって粉々に爆破されるなど思いもしなかった。
まさか、その30年後に、平和を求めた日本人が同じような理由で殺されるなど思いもしなかった。
僕にとってアフガニスタンは砂と岩だらけの荒涼とした土地、物騒な町という印象しかなかった。そこで彼はを指導し、アフガニスタンが緑豊かな国になることを夢見ていた。現地に溶け込み文化も理解していた。
そんなの彼はなんて笑顔のすてきな男なんだろう。ご冥福を祈ります。

合掌

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