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‐私の考える、教養とは何か。知識、智恵と教養とのボーダレスでふくよかな関係‐

今回も前回に引き続き、社内で行われた三分間スピーチの原稿をそのまま掲載します。2015年を締めくくるにぴったしな内容ではと勝手に考えております。皆さん、今年も一年ありがとうございました。

タイトルは、
‐私の考える、教養とは何か。知識、智恵と教養とのボーダレスでふくよかな関係‐
でした。
お早うございます。皆さん。
僕は皆さんに、常日頃教養を高めなさい、意識を高く持ちなさいと言っていますが、さて、その教養とはそもそも何でしょうか。
僕自身、皆さんに教養を高めろ、教養を高めろと言っているのに、それが意味するところが明確でなければ、何を高めていけば良いのか分かりませんね。
最近のトピックとしては、大学で教養学部を充実させるところが増えてますし、秋田の国際教養大学などは、あんな田舎と言っては失礼ですが、あの土地にありながら、就職率では、首都圏の大学を凌ぐほどの人気を誇っています。
今、教養という言葉が時代のキーワードであることは確かだと思います。

今日の僕のスピーチは、世の中的にどうしてこうも教養を求めるようになっていったのかを踏まえて、僕自身が考える教養とは何かをお話ししたいと思います。

先ずは、お尋ねします。
**さん、教養とは何ですか? 一言で答えてもらえますか。
…。
はい、ありがとう。
この教養に関して言うと、これが話題になったときに、**ちゃんが自分の出身大学を指して、教養を教育の柱にした大学であると発言してくれましたね。何と呼んでたっけ、**ちゃん?

「Doshisha Women’s College of Liberal Arts(略称:D.W.C.L.A.)

そうだよね。
同志社女子大学のHPを見ると、建学の精神として、1949年2月17日制定の『同志社女子大学学則』に、「キリスト教主義」を基本に、「国際主義」、「リベラル・アーツ」を教育理念とすると定めているね。
このリベラル・アーツをもってして教養と訳しているのだけど、これについてはこれから話していきます。これが教養とは何であるかをひもとくカギになると思います。

***さん、それ板書してもらえますか。”Liberal Arts”一般的にはこれが大学における教養です。パンキョウっていわれてるやつですね。

さて、あのマンハッタン島の近くにある、アメリカ独立戦争の100年後にそれを記念してフランスから送られた有名な、あの自由の女神のことを英語でなんて言いますか?
**さん、どうですか?
はい、そうです。Statue of Liberty ですね。

これも、板書してもらえますか、***さん。

一般教養は英語では「リベラル・アーツ」でしたね。このリバティもリベラルも語源は同じです。
日本語に訳すと「自由」です。
自由という単語にはもう一つ、フリーダムという言葉もあります。どう違うのでしょうか。本当はこれも説明したいけど、あまり時間がありません。***さん簡単に説明できますか。リバティとフリーダムの違いは自由とはなんぞやと考えたときにちょっとしたキーワードになります。

でませんか、そうですか。でもこれを説明していると長くなるので、リバティだけやりましょう。

要は、日本では一般教養と訳されているものが、原語としてはリベラル・アーツつまり、自由な学問という意味なわけです。ちなみに、このアーツが学問と訳されるのは、***さん当然ご存じですよね。
日本では、アートは芸術と訳されますが、これは誤訳に近いです。
アートとは人間が作ったもの全て、それを対象とする学問のことです。
それに対して、僕たちが自然科学と呼んでいる、物理や科学はサイエンスです。
これは神が創造したものを対象とした学問です。

ですから、リベラル・アーツと言った場合には、そこに含まれる学問は、語学を筆頭に、文学や芸術、論理学、哲学などになります。
ここまでが僕の知識でした。
そして、この知識を総動員すると、教養とは何?
と問われたら、昨日までの僕の知識では、「教養とは人間を自由にしてくれる知識や学問」でした。
これも間違ってはいないと思います。
はい、教養とは何?
はい、それは、人間を自由にしてくれるものだよ、チャンチャンで今日のスピーチ終わりとしても良いのです。

しかし、自分自身がこれにしっくりきていたわけではありません。
この自由と言っているのは、ギリシャの奴隷制の時代の自由なので、今僕らが頭に描いている自由とはかけ離れています。
リベラルアーツと教養、似ているようだけど完全に一致はしていない、その教養とは何か。
再びスタート台です。
教養と知識が別物であることは皆さん、何となく分かりますね。
皆さんは、**君が前回話した三智については覚えていますか。
**さん、何でしたでしょうか。
…。
そうですね、教養を身に付ける方法としての三つの智でした。元々は島崎藤村のことばでしたね。
「本」から学ぶ、「人」から学ぶ、「旅」から学ぶということを上げてくれていました。
ここで色々と学んだことが積み重なっていって、教養を高めるということでした。三智を通じて、人は様々なものを身に付けていきます。
だけど、それはやはりどこまでいっても知識が大半ではないかと思うのです。
出口会長の仰ることをいくら実践しても知識や智恵が身につくだけで、教養が身についたとはならないのではないか、と思うわけです。
では、それらが不要かというと決してそんなことはないでしょう。
人は、生きていく中でさまざまな知識を身に付け、それで学校に入ったり、就職をし、また知識を身に付け、知恵を付け競争に勝ったり負けたりして人生を過ごします。
その中にリベラルアーツは存在していて、そうやって自分というものの可能性を高めながら、自分自身がどんどんできあがっていく、だけど、一体、今身に付けたもののどれが知識で、どれが智恵で、どれが教養なのか区別はつかないです。
皆さんにお尋ねしたいけれど、教養豊かな人の話と、知識豊かな人の話って違うよね。
どこが違うんだろう。
ここで、またまた質問です。
**さん、あなたにとって、教養豊かな方というのはどんな方ですか。具体的に挙げてください。歴史上の方でも、今の例えば政治家でも、或いは友達や身内でも結構です。
…。
ありがとう。様々だと思います。
僕は、感じるのは、教養豊かな人の話というのは自分のことはおいて喋っている気がします。目の前の人を思ったり、社会のことを考えて喋っている人の話を聞いていると教養があるなと思います。そうでないと単に知識をひけらかしているだけに感じてしまいます。
では、この社会を考える人の考えはどこにあるんだろう。どこから来たんでしょうか。
ここで、仏教的アプローチを試みます。今度は時間を逆転させて取っ払って取っ払っていく作業をしてみます。今まで身についた知識や教養を全部引っぱがす作業です。
仏教で言う座禅のようなものかな。インナートリップ、つまり自分の精神世界に入っていく。
そうやってもう何も取っ払うものがなくなった時に最後まで残ったものが僕は教養ではないかと思うのです。
知識や知恵は後から付いてくるものです。教養はそれ以前に存在し、知識や知恵を教養に変えていく触媒のような存在ではないかと思うのです。
そうすると、最後に残っているものはなんでしょう。それは、幼い頃に親から教えられたこと、根源的な問題で叱られたこと、そんなことだけが残っていく。
親が教えてくれたこと、彼らが教えてくれたことは、人として当たり前のことばかりでした。
嘘をついてはダメ、ご飯は残してはダメ、仲良くしなさい、身勝手なことは慎みなさい。
それらは全て自分を捨てて先ずは人のために尽くしなさいなんです。
それらがあって初めて、知識や智恵が教養になっていくのではないのかなと思います。これを根本においておいて、その上で出口会長の仰る三智を実践していけば、教養の絶対量が増えていくのではないかと思います。それがなければ単なる知識の継ぎ足しで、それはコンピュータにでもできることです。
僕は、子どもには徳育がやはり大切な気がします。
良いものは良い、悪いものは悪い、やってはダメなことはダメだということを小さいうちから教えることで、ふくよかで豊かな教養を持つ子が育ってくれるのではないかなと思います。
逆に言うと、ここがしっかりしていないといくら三智があったとしてもそれは教養にはならないと思います。
こうやって見ていくと、教養とは何か、教養を高めるというのはどういうことか分かってくると思います。
自分のためではない、社会的意義、社会への意識がなければそれは教養ではないのです。
昨日、近所の書店に行って、この本を手に入れたかったのですが、売り切れなので至急Amazonで手に入れ一読しました。タイトルは、「人生を面白くする本物の教養」となっています。最後まで読みましたが、今、僕が定義しようとしている、教養とは何か、教養そのものへの言及は残念ながらありませんでした。ここに書かれているのは、教養を高めるための方法論です。ですから、当然旅の効用であったりのことは書かれています。ただ、全部読み終わって初めの方を読み返すと、こう書いてあります。
ときどき、「教養を身に付けるには何冊ぐらいの本を読めば良いですかなどと言った質問を受けることがあります。そういう質問を受けるたび、私は、教養とは、「生き方の問題ではないでしょうか」と答えるようにしています。と書かれています。
私は、これまでの結論として、「教養とは、人が人としてあるべき他者をいたわる心情に積み重ねられていった知識や智恵の集合体である。」と定義したいと思います。
では、これで今日の三分間スピーチ終わりたいと思います。

神様になった気分、神様と一緒にいる気分。

知り合いが高層マンションに住むことになったと昨日聞いた。

高層マンション。
そう言えば、昔は憧れた。

摩天楼から見下ろす景色は自分を舞台の主人公の気持ちにさせてくれるし、朝日が昇り、曇った日に雲海でも下に広がろうものなら、まるで神様にでもなったような気分で天界から、地上界を見下ろしていた。

でも、最近はどうもそういう気分にならない。いくら見える視点を変えても、高度を高くもっていっても気分は高揚しない。

最近は、近場の山に登ることが多い。

同じ視点の変化だけど、同じ見下ろす雲海だけど、こちらは気分が落ち着く。

神様になった気分ではなく、神様が隣にいるような気分になる。

こっちの方が良い。

きのわき

 

記憶しないのか、できないのか。

記憶久しぶりに部下とお客さんのところに行った。

名刺交換が始まり、先方が社長お久しぶりですねと仰った。

え?

確かに見覚えのある顔、差し出された名刺の名前もどこかで拝見したような…。

僕のこの躓きが部下を動揺させてしまった。社長のこの体たらく、部下は辛い。

部下の辛さは相手にも伝わる。相手もどう対応していいものか。気まずい空気があたりを覆った。商談が終わるまで、ついぞ僕は思い出すことがなく、エレベータで階下に降り、玄関を出たところで、部下に尋ねた。

どなただったの?

すると、その方は僕はわずか数ヶ月前に会ったばかりの方であった。しかも訪問する前に部下は一度僕にそのことを伝えさえしていたというのだった。彼の口からいくつかの固有名詞を聞いているうちに、まざまざと記憶がよみがえった。

慌てて、元来た道を引き返そうとした。

部下は、どこに行くんですかと。

いや、今、まざまざと思い出したので、先ほどの件をお詫びに行かねばならない。このままでは、僕は思い出してないままの人間として記憶されてしまう。

部下は半分呆れながらも、その表情に憐憫の陰を宿しながらただじっとエレベータを見つめていた。

記憶しないのか、できないのか。多分いずれでもないのだと思う。

マリーへの伝言。

マリー当社にマリーという素敵な女性が入社してくれました。
つい最近の話です。

「五番街のマリー」と「ジョニーへの伝言」という曲を一緒に混同して、
「マリーへの伝言」という間違ったやつがいました。
遠い1970年代の話です。

新人のマリーには伝えたいことが一杯。
だけど、社員の中にはマリーにうっかり伝えるのを忘れてしまうやつがいる。
そんな時、僕はこの「マリーへの伝言」という間違った覚え方をしていた奴の横顔を
思い出してしまいます。

自身に課してるNGワード

お疲れ様変なこだわりだなって自分でも思います。
なので、他人様には言えないのだけど、私自身に課しているNGワードというのがあります。

”がんばります”、”お疲れ様”、”ご苦労様”は使わないようにしています。

会話においてこれらの言葉を使うのを極力避けるようにしています。

そして、社員にもできるだけ僕に対しては使わないでねってお願いしています。だけど、これは思う以上に大変ですよ。この三つの言葉は会話における潤滑油のようなもので、挨拶とほぼ同義ですから、日本人からこれらを奪うと、相手に失礼な印象を与えるのではないかとなるので、非常に難しいです。営業の人間にとっては致命的だったりします。
だけど、だからこそ、やってみると面白いです。便利なものを使えないとなると人はそれ以上に工夫しますから。
ちょっと周りを見渡してください。この三つを安易に使っている人が実に多いことに気づかれると思います。そして、直ぐにそういう人は他の言葉も安易なことに気づかれることでしょう。言葉はその人の思想の現れですから、思想も安易だということになり、その人自身が安易だということになります。
かと言って、言葉狩りをしようというのではモチロンありません。不自由っていうのもたまには良いもんだよという程度です、はい。

”頑張ります”
僕は頑張るのは当然だと思ってます。それを敢えて頑張りますというのは
どうなのかという考えです。
また、他人に対しても用いません。
それは、その人は当然のように頑張っているに違いないので、そんんな
頑張っている人に、”頑張ってください”というのは失礼だと思うからです。

”ご苦労様”
苦労はした方が良いです。
昔から、苦労は買ってでもせよと言います。
苦労するからこそ、そこにイノベーションが生まれます。
安逸な生活や態度には向上の余地がありません。
人々の幸福はその人の苦労とその後のイノベーションによってもたらされます。

”お疲れ様”
疲れてません。社長が疲れたら会社として終わりだと思います。
また、実際に疲れてません。
先日のことです。私は午前中ベッドで寝ながらテレビを見ていました。
そしたら、会社から電話があり、”お疲れ様、***です。”
と。
私は疲れてないです。横になってます。疲れているのは会社で仕事している
あなたです。状況的に正しくないです。
疲れていない人に、”お疲れ様”は非常に危ないと思っています。
僕は、自分が棺桶に入ったときに、お疲れ様って言われる人間になりたくて
働いてます。それまでとっておきたいのです。

ちょーーっと格好つけすぎですね。

未来への投資。

今朝の日経コラム欄に、葛西海浜公園にある干潟が来夏にも海水浴場として解放されるという記事があった。

昔の白黒フィルムを見ていると、都内の近場で都民が海水浴に興じている様子がある。あー、こんな風景が東京にはあったんだと、その時代に生きていないのに懐かしさを覚える。

記事によると、排水規制や下水道の整備が整ったからだけでなく、海水を濾過するための自然の力。つまり、貝や海藻などを地道に育ててきた地元NPO法人の地道な活動が実を結んだとのこと。

全く、頭が下がります。

事業をやっていると、今期の利益、来期の売り上げなど、どうしても目の前の数字に右往左往してしまいます。

社内で、貝や海藻を育て、珊瑚を大切にしたいとは思っていても、なかなか現実には難しい。

でも、こうやって、長い間顔を付けることもできなかった海辺を、子どもたちが安心してはしゃぎ回る環境に取り戻した方々がいる。

難しい、むずかしいと言いながら、未来への投資を避けているのは言い訳なんだろうなと思います。

株式会社Dai 代表取締役 木脇和政

マクドナルドの方向逆じゃない?

DSCN41151マクドナルドの方向逆じゃない?先ほど、「米マクドナルドが再建計画 3500店をフランチャイズ化」というニュースが流れてきました。

これ逆じゃないでしょうか。

全世界的なマクドナルドの業績悪化は知られているところ。であれば、悪化を食い止めようとするのであれば、直営化し、本部の意向が届きやすくし、体制を引き締めるべきなのではないでしょうか。

しかし、ニュースにはこうある。「直営店のフランチャイズ化の促進などで、2017年末までに年間管理費を3億ドル(約360億円)削減する。」

管理費を浮かせたいんだ。

そりゃ、フランチャイズ化すれば売り上げも落ちるけど、管理費は確実に削減できる。そして、こうも言ってる「15年には80億~90億ドルの株主還元も行う。」

そっかー、全ては株主のためか。

短期的には株主は喜ぶだろうが、長期的にはどうなのか。今のマクドナルドにおいてどれほど優秀な人間がフランチャイズオーナーとして手をあげるのだろうか。

3500店をフランチャイズ化というのは、体の良いリストラなんだろう。そこまで追い詰められているのか、それとも経営陣はステークホルダーとして株主利益しか考えることができず、従業員や取引先、巨大ハンバーガーチェーンとしての社会的役割は見えなくなってしまっているのだろうか。

迷走が始まりそうな予感。