福島県会津若松市から、空を見上げる人たち。

の少年達も学んだであろう藩の藩校「」はで完全に焼失し跡だけがこうして残っている。天文台だけあって高いところにある。アサカイ用の三脚ではとても届かないからこうして見上げることになる。
150年とちょっと前まではこの場所で同じように空を見上げていた人たちがいた。

昨年は、日本で初めての小学校を京都から紹介したが、その歴史はもちろん明治になってからのこと。その前の江戸の時代、武士と庶民の教育を目的として作られた学校があった。全国で最も早い時期につくられた学校といわれているのがの「稽古堂」だ。

会津稽古堂
実際の稽古堂があった場所には今は跡地に石碑が建っているだけだが、稽古堂という文字は会津市内でたびたび目にする。
この建物は、生涯学習センター、図書館、公民館が一体になった施設だが、それらの一番上には会津稽古堂の文字が冠せられている。会津の人々が今も稽古堂という名前になにかしらの誇りをもっていることがうかがわれる。


寛文4(1664)年の創立ということだから江戸時代になって間もなくのことだ。そこでは、武士や庶民の身分に関係なく多くの人々が通い、講義に耳を傾けたといわれている。
早いということはそれだけ熱心ということだ、会津藩での教育熱心さはそこで終わらず、その後、三代藩主・松平正容(まさかた)のときに、今度は藩士教育のための新たな学問所が作られ、五代藩主松平容頌の時、教育こそが藩政改革の要であるという家老田中玄宰(この人すごい。たんに教育の大切さを説いたのではなく、教育のもともとのことば教化を実践した方)の進言により享和3(1803)年、五年の歳月を費やし、文武の両教科を教授する総合学校「日新館」がついに完成した。

それは東西約120間、南北およそ60間の敷地に日本最古のプールといわれる水練場や天文台までをも備えた、全国有数の藩校であった。ちなみに水練場で何やってたかというとクロールやバタフライであるわけもなく、甲冑を着たまま泳ぐ練習だったとかなんとも実践向きです。

日新館は稽古堂とはちがい、そもそもが藩校とはそういうものだが徹底したエリート教育の場であり、学べる者は会津藩士の子弟のみに限定されたし、それを義務づけられた。
当時の会津藩の上級藩士の子弟は10歳になると日新館に入学した。15歳までは素読所(小学)に属し、礼法、書学、武術などを学んだ。素読所を修了した者で成績優秀者は講釈所(大学)への入学が認められ、そこでも優秀な者には江戸や他藩への遊学が許された。
そういったエリートであったからこそ、あの白虎隊の悲劇は起きたとも言える。

しかしその日新館も慶応4(1868)年、戊辰戦争により校舎は焼失。現存するのは会津若松城趾西側に残る天文台跡のみ。これが日本初の天文遺産として認定された。

江戸時代に建設された天文台はいくつかあるが、現存するものはこの天文台跡のみのため、貴重な史跡であることから、平成31(2019)年にに認定されている。
しかし、日本天文遺産?
世界遺産は聞いたことあるけど天文遺産?
調べるとあった。
1回目の認定がこの日新館に付属した天文台跡と、超新星やオーロラと思われる天文現象を書き留めた藤原定家の日記「明月記」、そしてその次が日本中を騒がせたあの7~8世紀に造られたとされ現存する最古の本格的な星図が描かれた奈良県明日香村の「キトラ天井壁画」。
明月記、キトラ古墳と並んでるところがすごいんだけどなんだか違和感もある、世間の知名度があまりにも違い過ぎる。そもそも前者は国宝級であり実際国宝だ。しかし、この天文台跡は会津若松市教育委員会の看板が立っているだけで、一体道行き人の何人が気付いているのだろう。
でも、別にこんな選定に変な政治力も絡んでないだろうし、世間の認知、私の認知が低すぎるだけなのだろう。

さて、ちょっと天文の歴史に移ろう。

15世紀半ばから始まった大航海時代。それを切り開いた欧米の国々では天体の運行はとても重要なことだったし、砂漠を抱える中東の国々にあっては、これもまた頼りとなるものが周りに何もないだけに、一定の動きで方向を示す天体の動きは何よりも重要で、それを道しるべとして 彼らは海上の航海と、沙漠上の航海を続けることができた。 それ故、彼らの国の国旗には星をかたどっているものが多い。
それに対して盆地に暮らし、周りを山々に囲まれたわが国日本では周囲を見回すとすぐに目印となる木や山があり、方角や方向はそれらを見ることによって大体のことが分かった。
東山、北山、西山と三方を山に囲まれた京都などは、高層ビルが建ち並ぶ前は京都市内のどこに立っていても今自分がどこにいるのかは、周囲の山の形で分かったそうだ。そんな日本の国旗には星のイメージはなくこっちはお日様である。

では、日本ではそれほど天文学が発達しなかったというとそうでもない。有名な伊能忠敬の大日本地図は江戸時代の末にあって、どの諸外国よりも正確に自らの国土を測量していた。それは天文学の知識によるところ大である。それ以外にも日本は四季に恵まれるが故に夏の日照りや降雨の予測は欠かせない。

に写っている説明には、”天文台は、つねに星の観測をするところであったが、特に、毎年、冬至の日には学校奉行・天文方の師範。暦家が集まり、晴雨・考暦を編したところで、重要な施設であった。”とある。
とにかく、この天文台に勤める方々は昼も夜も何かを知りたくて、しかもそれは明日のこと未来のことを知りたくて空を見上げていたのだろう。

空を見上げるのは明るい明日のためであってほしい。

だけど、今、ウクライナの人たちは自分たちを空から襲うものから愛する家族や我が身を守るために来る日も来る日も空を見上げなければならない。
そんな世界は早く終わらせなきゃなんない。

今日のように天文台跡の前からアサカイやったりするのは、何もそれが目的でってわけではありません。行きたかったところ、尋ねたかった場所ではあるのですがそうではないのです。
私たちはもう丸二年いわゆるで仕事をしています。当然のことながら働いている人も採用させていただく人も全国にいらっしゃいます。では、全く会わないのかというとメンバー(社員のこと)とは年に4回の社員総会でリアルに会います。そして、採用の場合には必ず一度はリアルにお会いするようにしています。
つまり、採用のために全国を回っているのですがその時にやはりその地元の人に会う前には地元の歴史なり風景なりを感じた上で会いたいと思うのでこんなことやってるのです。

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