教養を磨け、教養力を高めろ、教養がなければ質の高い仕事はできないんだよと僕は会社でよく口にします。
世間でも同じようなことを仰るような方がいらっしゃるような気がしますし、歴史的にも正しいような気がしますし、歴史が正しければそれは明るい未来を担保する何かだと言って良いんではないかと思っています。
さて、自分に教養があるとかどうとかはこの際おいておいて、やはり言い続けてます。なので、その理由とか意味とか何度か書いたりしてるんですが、どうも分かりにくいという感じがしないでもないです。
疑問1.教養ってそもそも何?
疑問2.教養がないとどうして質の高い仕事はできないの?
これらの疑問に対する答え、つまり教養とは?に対する定義は自分なりにはできていました、割と具体的に。だけど、確証がなかった。それを議論する相手、それについてお尋ねすべき相手が見つからず、ずっとあたためてきました。しかし、先日の昼間、非常に人格的にも素晴らしく、学識、ご経験ともに優れた方とお話しする機会をいただき、やっと自分の考えを披露させていただいたところ、なるほどそれは面白いですねと賛同いただいたのでついにここで披露します。
ちょっと、もったいぶってますね。だけど、その日は本当にそれぐらいの一日だったのです。
教養と似て非なるものに知識がありまますが、これと比較することで明確になるのです。
例えば、この宇宙はビッグバン以来137億年を経過しているわけですが、これは観測結果からほぼ科学的に事実とされています。その137億年前の宇宙開闢後一瞬にして素粒子が誕生し、原子、電子、中性子が生まれ、重力が発生し、どういうわけかタンパク質が合成され、命の源が誕生した(ここら辺はむちゃくちゃいい加減です。単語の羅列です。ちゃんと調べるべきと思いますがご容赦ください。言いたいことはここではないので。)
さて、この一文に出てきた、”ビッグバン”という単語、”137億年”という数字、原子、電子、中性子などの単語いずれもこれは知識です。
しかし、このビッグバンという無から有が生じると言う概念や、無機物から有機物ができてしまったという現象、137億年という凡そ人類が経験することのない年月をどう感じるかは人それぞれです。
日常生活を送ったり、一般的な会社で業務を遂行するには、あってもなくても良いような知識です。
そうであるが故に、137億年という人類の歴史を知ったときに、ここに価値を感じ、今後の人類の未来に思いを馳せ、だからこそ命は大切にしなければならないのだ、地球は大切なのだと考える力が教養力。
そこで自分がとれる行動として、会社、仕事を通じて社会に貢献し、人類の歴史を少しでも明るいものにしたいと思えば、それは単なる知識から教養になっていると思います。
つまり、知識も教養も単に文字列だけを見れば同じもの。その文字列をどう捉えるかという心の状態によりそれは、知識にも教養にもなりうるのではないかと或る日突然思ったわけでした。
疑問2.教養がないとどうして質の高い仕事はできないの?
時間がなくなりました。続きは後ほど…。
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