
北海道に住むメンバーが地元自慢のお酒として話していた。
彼がやってきたら一緒に飲もうと密かに冷蔵庫に寝かしていたが年内はそれも果たせそうになく、
彼のことを思いながら本日幹部の皆さんと飲す。
僕たちはモルモットじゃない
「僕たちはモルモットじゃないですよね」
昨日のマネージャー会議で、幹部たちからそんな言葉が投げかけられた。
「実験」という言葉に、強い違和感があったのだと思う。
いや、これは成功させるための実験なんだ。
成功のための社会実験なんだ。
そう説明しても、場は収まらなかった。
もしシュワッチさんが、何かを証明するための実験動物として扱われていると感じたら、どんな気持ちになるだろうか。
そんな問いを、突きつけられた気がした。
「挑戦、でいいんじゃないですか」
誰かがそう言った。
確かに、と思った。
それでいこう。
そう決まった。
では、何に挑戦しているのか。
私たちは、私は、いったい何に挑戦しているのか。
フィロソフィーへの挑戦
それは、フィロソフィーへの挑戦だ。
私たちのフィロソフィーは、
「文化を愛し、教養を育む。」
この一文である。
これは、私が敬愛する稲盛和夫塾長の経営理念
「全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、人類、社会の進歩発展に貢献すること」
を、毎日眺めながら考え続けた末に生まれた言葉だ。
会社の経営理念を考えなければならないと思ったとき、真っ先に頭に浮かんだのはこの塾長の言葉だった。
盛和塾の塾生なら、それはごく自然なことでもある。
同時に、気づいてしまった。この言葉から、どうしても抜け出せないことに。
試しに「物心両面の幸福」でウェブ検索してみると、出てくるのは解説記事と、元塾生の会社のホームページばかりだ。
有名なところではJALやKDDIも、この言葉でヒットする。
塾長の経営理念からは逃げられない。
言われていることが、あまりに当たり前すぎるからだ。
会社は何のために存在するのか。
それを突き詰めていくと、結局は働く人たちの物心両面の幸福と社会貢献に行き着いてしまう。
どれだけ想像を膨らませても、最後はここに戻ってくる。
聞いた話だが、当初は後段の
「同時に、人類、社会の進歩発展に貢献すること」
はなかったらしい。
最初は、従業員の幸福だけを追求する理念だったがのちに社会への貢献が加わったらしい。
企業が成長し、規模が大きくなれば、社会的責任を帯びる。
その結果なのだろう。
言葉を越える
この言葉は、あまりに完成されすぎている。
同時に、私の感覚ではどこか時代の匂いもまとっている。
今年2025年は大阪で万博が開かれた年。
1970年、今から50年前にも同じ大阪で万博が開かれていた。
人類、進歩、発展。
これらの単語からは、どうしても50年前の空気が立ち上ってくる。
私が50年前の万博で感じたのは人類は進歩し発展していくのだと言う無邪気な未来志向だった。
その時には子どもだったから社会の勢いになんの疑問も持たなかったからかもしれないが、子どもなりにもそう感じていたような気もする。
今はない。
50年を経た今、今も人類はるし進歩も発展もしているのだろうけど、社会全体がそれを信じているのかと言うと違う。無邪気さは許されなくなっていて社会はより普遍的なものを求めているように思う。
言葉は、自分のものにしたい。
借り物ではなく、自分の内から湧き出たような言葉にしたい。
そうやってもがいても、もがいても塾長の言葉に引き戻される。
多くの元塾生の会社の経営理念がそうであるように。
それでも、私は私の言葉を作りたかった。
会社は何のために存在するのか。
それを、できるだけ短い言葉で表したかった。
いつ生まれたのかは、はっきりしない。
だが、あるとき自然に浮かんだ。
「文化を愛し、教養を育む。」
ここにすべてを集約できたと思ったし、これこそが自分の言葉だと確信できた。
テレワークという必然
2020年を迎えると同時に、コロナがやってきたと同時に私たちはテレワークに入っていった。
目指したのは、完全なテレワーク。
フルリモートだった。
偶然にもそれを後押ししたのが、このフィロソフィーだった。
メンバーの働く様子を見たとき、テレワークは人類の幸福に資する働き方だと直感したのだ。
当初は、従業員をコロナから守るためだった、会社には全従業員の健康と安全に配慮する義務がある。
その遵法精神から始まった取り組みだった。
しかし、そこから理想の階段を登り始めた。
遵法精神だけに基づく働き方なら、コロナが終息すれば元に戻る。
それは潔しとしない。
そうした記事も書いた。
リアル出社への圧力が高まるたびに、1年前、2年前と書き連ねてきた。
だが、まだまだ発展途上だ。
挑戦は始まったばかりにすぎない。
リアルに飲む酒の格別さ
昨日、久しぶりにメンバーとリアルで酒を酌み交わした。
なんと美味かったことか、半年間も冷蔵庫で思いだけを寝かせていたせいだけではないだろう。
一方で、今では死語になってしまったZoom飲み会。
あれが、いかに味気ないものだったかを改めて思い出す。
アルコールは酔いそのものだけでなく、その場の空気を味わっている。
飲まない人ですら、その雰囲気が好きだと言うくらいだ。
画面越しの飲み会では、酒がうまくない。
酔っているのか、酔っていないのかもわからない。
それなら、物思いにふけりながら自分の中の他人と向き合って飲むほうが、よほど楽しい。
ズーム飲み会の味気なさが証明しているように、この働き方は何かがおかしい。
単なる酔い方の問題でも、単なるコミュニケーション不足の問題でもない。
消しゴムが拾えないもどかしさ
テレワークでは、奇妙な感覚に襲われる。
相手が何を考えているのか、本当はわかっていないんじゃないかという感覚だ。
言葉やテキスト、映像など、いわゆる情報量はリアルの頃よりも早く多い。
それにもかかわらずだ。
命が感じられないというと大袈裟だけどそれに似た感覚。
だから、何気ない言葉が刃になるし、なることを知っている私たちは言葉選びに慎重になる。
人は学習する、慎重な言葉だけの世界を。
臆病な言葉に慣れると、より言葉は臆病になりながらも、鋭利さを失ってはいない。
リアルにおいては日常の何気ない動作がその鋭利さを摩耗させてくれていたように思う。
昨日の会議では、リアルの席だとデスク並べていて隣の人が落とした消しゴムを拾ってあげることができるが、このはたらき方はそれができないと言った。落とした人が落としたと言ってくれない限り私たちはそれに気づくことができないとも。
消しゴム拾うのは想像以上のコスト
先日、信州のメンバーが自分の畑でとれた山芋を、段ボール一箱持ってきてくれた。
私はそれを近隣の関西のメンバーに一日かけて配って回った。
消しゴムを拾ってあげることのできないもどかしさを解消するために。
しかし、それは想像以上に金と時間のかかる作業だった。
信州からの山芋はすりおろしてみるととても粘りがあり食べてみると地味深く感じられる、それほどおいしいものだったけど、近所のスーパーで購入すれば1000円もかからないだろう。
だけど私が実際に配って回るためには丸一日の時間と1万円程度の高速代、ガソリン代を要した。
だけど、これを仮にメンバーの皆さんが毎日出社していたとしたらその数百倍の費用と時間が失われていただろう。
それを考えると私一日の時間は他愛のないものだと思う。
私の行為は手が届くようで届かないどかしさ。言葉でしか通じ合えない悲しさへの抗いでしかないかもしれないのだが。
それでも、最上でもある
それでも、この働き方は最上でもある。
離れていても、 消しゴムは拾えなくても、 酒は酌み交わせなくても。
文化のギャップは、あればあるほど魅力的となる。 物理的な距離が遠いほど、そこにある文化の煌(きら)めきは増していくのだ。
逆説的だが、テレワークはお互いの距離に比例して、その組織的な紐帯(ちゅうたい)を強くする側面がある。同じオフィスにいれば、視界に入る情報だけで相手を理解したつもりになれるだろう。しかし、遠く離れているからこそ、私たちは相手がどのような環境で、どのような想いで仕事に向き合っているのかを、より深く、より能動的に想像しなければならない。
会えないことのもどかしさが、かえって相手に対する関心の純度を高め、お互いを想う知的なエネルギーを増幅させる。私たちは、単に同じ場所に集まる集団ではなく、共通の志という「目に見えない座標」によって、より高い次元でつながっている。
また、テレワークは、社会に資する働き方でもある。 地方での雇用を守り、その場所で暮らさなければならない人、その場所で働かなければならない人たちに価値ある仕事を届けることができる。
この働き方は、何としても守らなければならない。 だが、ただ守るだけでは足りないのだ。善きこと、正しいことをしているという自負だけで満足していては、この挑戦は完成しない。私たちはこの働き方を通じて、圧倒的な結果を出し、その正しさを強さとして証明しなければならないのだ。
では、私たちはこの働き方を通じて「消しゴムが拾えないもどかしさ」を解決できるのだろうか。
私の答えは、否だ。 私たちは、消しゴムが拾えないことを解決しようとはしない。むしろ、その物理的な不自由さを一つの前提として潔く「諦める」ことからスタートしなければならない。
たまには山芋配って歩くけど。
私たちが求めているのは、もっと別の、オルタナティブな価値観——すなわち「文化を愛し、教養を育む」という姿勢に他ならない。
テレワークという働き方は、必然的にメンバーの間に物理的な距離を生み、それぞれの生活に根ざした「文化的なギャップ」を鮮明にする。信州の土に触れる者、地方の静寂に身を置く者、都市の熱量の中で思考する者。もし私たちが効率や同質性だけを正義とするならば、このギャップは単なる「不便」や「不条理」でしかないだろう。
しかし、もし私たちに「異質なものを尊び、面白がる教養」があるならば、話は全く逆になる。隣に座る人の消しゴムを拾うことはできない。だが、その代わりに私たちは、遠く離れた誰かがその場所で育んでいる「自分とは異なる価値観」を想像し、理解しようと努めることができる。この「容易には届かない相手」への知的誠実さや、違いを慈しむ想像力こそが、実は組織を最も深く、強く結びつける。
これは仮説だ、だから社会実験と呼んでいたがもう止める。
手段と目的が深く共鳴し合えば強い
これからは「実験」ではなく「挑戦」だ。 そして、この挑戦には私たちにしかない「強さ」の根拠がある。
私たちの主事業である『Bカート』は、商売を場所の制約から解放するツールだ。 社会のDXを推し進め、自由な商取引を広める。そんなプロダクトを世に送り出している私たちが、もし自分たちの働き方を「場所」に縛り付けていたら、それは私たちの言葉に嘘を混ぜることにならないだろうか。
Bカートで社会の壁を壊し、テレワークで自分たちの壁を壊す。 「作るもの」と「私たちの生き方」が、同じ方向を向いていること。 この言行一致の潔さこそが、組織に揺るぎない軸を通してくれるのだと思う。
隣にいないからこそ、相手を想い、想像力を研ぎ澄ます。 その日々の葛藤すらも、プロダクトに血を通わせ、使い手の心に届く深みを与えてくれるはずだ。
「道具・手段=Bカート」と「在り方=はたらき方」、そして「目指す場所=フィロソフィー」。 それらが重なり、響き合っている会社は、そう多くないのでは。
この真っ直ぐな構造こそが、私たちの強さの源泉だろうと思うし、だからこそ、この挑戦には価値がある。
*この「社会実験」という言葉はたびたび使っていて二度三度苦言を呈されたことがある。その度に確かにそうだなとは思ってはいても真摯には向き合っていなかった。今回改めて提案のあった「私たちの挑戦」に変えてみた、思考がまとまった。よかった、ありがとう。
今回、SUNOで作った曲をブログ内に試しに貼ってますけどなんか変です。
何が変なんやろって考えると、恐らく簡単にでき過ぎてる事実を自分は知っているからだと思います。
SUNOのクォリティってすごいです、ほとんど作曲家は失業するのではと思えるぐらいです。しかし、これが歌詞を放り込み曲調を指定するだけで1、2分も待てばできてしまう。
さて、どうなるんでしょ。
こんなクリエイティブなものが簡単に作れるようになった先には何があるんでしょ。

