『上杉鷹山』Tell us your historical figure born in your home-town who you’re proud the most. 

「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」という有名な句が作られたのがここ餐霞館(さんかかん)。米沢藩9代藩主であった上杉鷹山が隠居後に住んだ邸宅跡。特に何もないのだけど、あの句が詠まれたとこなんだというそれだけでそこにいることが嬉しい。

色々考えましたが、山形においては鷹山公をおいて他にはないと思います。

私の出身の飯豊からみると、米沢はあまり同郷というには地域としては違うのですが、同じ山形ではあります。
鷹山公は九州日向高鍋藩の出身です。
そこから、跡継ぎに困っていた米沢藩に養子として入っていくわけですが、当時その米沢藩は深刻な財政難にあえいでいました。九州から東北に行くだけでも困難なところにもってきて、そこはもう破綻寸前の藩でしたから、藩主になったとたんに相当の重圧に苦しんだと思います。
しかし、鷹山公は見事に財政改革を成し遂げます。
当時の米沢藩を苦しめていたのは何と言っても膨大な人件費でした。
皮肉にも藩祖上杉謙信公を慕う人間が多かったために、財政難にも関わらず藩に義理立てをする人間が多く、藩もそういった人間を切り捨てることができなかったため、財政赤字にも関わらず藩は多くの人間を抱え苦しんでいました。
そんな中で鷹山公が施した政策は一にも二も倹約、倹約でした。
自らが率先して、華美を慎みましたが、財政に余裕がないにも関わらず、一方で藩校を作り、子弟の教育に務めました。貧しいときに教育に力を入れたのは藩の将来を考えてのことでしょうが、それは実際に鷹山公が引退を迎えた頃に、藩校で勉強した者達が藩の要職に就き、藩の運営をするようになり、助けることになりました。教育というのがいかに大切なものであるかが分かります。
鷹山公は、自らは自分に子どもがいなかったこともあるのでしょうが、引退に当たっては、家督を元の本家に戻すのですが、それも自分が引退することで、参勤交代を免れ、財政支出を抑えるためであったとのことです。
どこまでも藩の財政を気に掛けていた人物なのだなと思います。
一方で、江戸の中期にあってとても進歩的な考えですが、今では当たり前の主権在民や君主機関説のような思想をもっていました。これは鷹山公の生い立ちとも関係があるのかもしれませんが、とても進歩的、開明的で自分というもの、私的なものを捨て去った名君であったと思います。

鷹山公の有名な言葉が、「為せばなる、為さねばならぬ何事も、成らぬは、人の為さぬなりけり」元は武田信玄のことばとも言うらしいですが、この言葉はその通りです。
私も、やるしかないのです。

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