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履歴書Ⅱ

Autumn Sign

先に履歴書って未来が書かれてない、少しフォーマット変えてよとメーカーさんに注文を出しましたが、社員の一人に、そもそも履歴書って字からしても、過去のことを書くようになっているので、仕方がないのではないでしょうかと言われました。

つまり、履歴書の履って確かに、履修の履だったり、草履の履だったりして、本来の意味は、何かを履いたり、修めたりという意味ですね。

そういった歴史を修めた書なのだから、履歴書。過去のことがメインであるのは仕方のないことなんですね。

それを元に、未来を語るのが、面接かな?

ありがとう、**君。

株式会社Dai 代表取締役 木脇和政

ことばは魔法。

初日の出2016初日の出は、どちらでご覧になるんですか?
あー、あの高台で。海が近いですし、きっと良い日の出が拝めますことでしょう。
新年明けましておめでとうございます。

まー、このお節のきれいなこと。ホント美味しいですね。
え、ぜんぶ手作りなんですか!いやー、それをお聞きしたらなおのこと美味しく感じます。
皆さん、新年明けましておめでとうございます。

もう、元日も暮れました。
さてさて、楽しみはどんな初夢をあなたさまがごらんになるかです。
良い夢をお作りなさいまし。

まことに言葉は魔法でございますね。

おめでとうと口に出せば自分の世界がおめでとう。

美味しいと口に出せば、言った私の口が一番美味しい。

今夜の夢は私の言葉で紡がれる。

言葉は魔法だね。

皆さん、新年明けましておめでとうございます。

木脇和政

 

‐私の考える、教養とは何か。知識、智恵と教養とのボーダレスでふくよかな関係‐

今回も前回に引き続き、社内で行われた三分間スピーチの原稿をそのまま掲載します。2015年を締めくくるにぴったしな内容ではと勝手に考えております。皆さん、今年も一年ありがとうございました。

タイトルは、
‐私の考える、教養とは何か。知識、智恵と教養とのボーダレスでふくよかな関係‐
でした。
お早うございます。皆さん。
僕は皆さんに、常日頃教養を高めなさい、意識を高く持ちなさいと言っていますが、さて、その教養とはそもそも何でしょうか。
僕自身、皆さんに教養を高めろ、教養を高めろと言っているのに、それが意味するところが明確でなければ、何を高めていけば良いのか分かりませんね。
最近のトピックとしては、大学で教養学部を充実させるところが増えてますし、秋田の国際教養大学などは、あんな田舎と言っては失礼ですが、あの土地にありながら、就職率では、首都圏の大学を凌ぐほどの人気を誇っています。
今、教養という言葉が時代のキーワードであることは確かだと思います。

今日の僕のスピーチは、世の中的にどうしてこうも教養を求めるようになっていったのかを踏まえて、僕自身が考える教養とは何かをお話ししたいと思います。

先ずは、お尋ねします。
**さん、教養とは何ですか? 一言で答えてもらえますか。
…。
はい、ありがとう。
この教養に関して言うと、これが話題になったときに、**ちゃんが自分の出身大学を指して、教養を教育の柱にした大学であると発言してくれましたね。何と呼んでたっけ、**ちゃん?

「Doshisha Women’s College of Liberal Arts(略称:D.W.C.L.A.)

そうだよね。
同志社女子大学のHPを見ると、建学の精神として、1949年2月17日制定の『同志社女子大学学則』に、「キリスト教主義」を基本に、「国際主義」、「リベラル・アーツ」を教育理念とすると定めているね。
このリベラル・アーツをもってして教養と訳しているのだけど、これについてはこれから話していきます。これが教養とは何であるかをひもとくカギになると思います。

***さん、それ板書してもらえますか。”Liberal Arts”一般的にはこれが大学における教養です。パンキョウっていわれてるやつですね。

さて、あのマンハッタン島の近くにある、アメリカ独立戦争の100年後にそれを記念してフランスから送られた有名な、あの自由の女神のことを英語でなんて言いますか?
**さん、どうですか?
はい、そうです。Statue of Liberty ですね。

これも、板書してもらえますか、***さん。

一般教養は英語では「リベラル・アーツ」でしたね。このリバティもリベラルも語源は同じです。
日本語に訳すと「自由」です。
自由という単語にはもう一つ、フリーダムという言葉もあります。どう違うのでしょうか。本当はこれも説明したいけど、あまり時間がありません。***さん簡単に説明できますか。リバティとフリーダムの違いは自由とはなんぞやと考えたときにちょっとしたキーワードになります。

でませんか、そうですか。でもこれを説明していると長くなるので、リバティだけやりましょう。

要は、日本では一般教養と訳されているものが、原語としてはリベラル・アーツつまり、自由な学問という意味なわけです。ちなみに、このアーツが学問と訳されるのは、***さん当然ご存じですよね。
日本では、アートは芸術と訳されますが、これは誤訳に近いです。
アートとは人間が作ったもの全て、それを対象とする学問のことです。
それに対して、僕たちが自然科学と呼んでいる、物理や科学はサイエンスです。
これは神が創造したものを対象とした学問です。

ですから、リベラル・アーツと言った場合には、そこに含まれる学問は、語学を筆頭に、文学や芸術、論理学、哲学などになります。
ここまでが僕の知識でした。
そして、この知識を総動員すると、教養とは何?
と問われたら、昨日までの僕の知識では、「教養とは人間を自由にしてくれる知識や学問」でした。
これも間違ってはいないと思います。
はい、教養とは何?
はい、それは、人間を自由にしてくれるものだよ、チャンチャンで今日のスピーチ終わりとしても良いのです。

しかし、自分自身がこれにしっくりきていたわけではありません。
この自由と言っているのは、ギリシャの奴隷制の時代の自由なので、今僕らが頭に描いている自由とはかけ離れています。
リベラルアーツと教養、似ているようだけど完全に一致はしていない、その教養とは何か。
再びスタート台です。
教養と知識が別物であることは皆さん、何となく分かりますね。
皆さんは、**君が前回話した三智については覚えていますか。
**さん、何でしたでしょうか。
…。
そうですね、教養を身に付ける方法としての三つの智でした。元々は島崎藤村のことばでしたね。
「本」から学ぶ、「人」から学ぶ、「旅」から学ぶということを上げてくれていました。
ここで色々と学んだことが積み重なっていって、教養を高めるということでした。三智を通じて、人は様々なものを身に付けていきます。
だけど、それはやはりどこまでいっても知識が大半ではないかと思うのです。
出口会長の仰ることをいくら実践しても知識や智恵が身につくだけで、教養が身についたとはならないのではないか、と思うわけです。
では、それらが不要かというと決してそんなことはないでしょう。
人は、生きていく中でさまざまな知識を身に付け、それで学校に入ったり、就職をし、また知識を身に付け、知恵を付け競争に勝ったり負けたりして人生を過ごします。
その中にリベラルアーツは存在していて、そうやって自分というものの可能性を高めながら、自分自身がどんどんできあがっていく、だけど、一体、今身に付けたもののどれが知識で、どれが智恵で、どれが教養なのか区別はつかないです。
皆さんにお尋ねしたいけれど、教養豊かな人の話と、知識豊かな人の話って違うよね。
どこが違うんだろう。
ここで、またまた質問です。
**さん、あなたにとって、教養豊かな方というのはどんな方ですか。具体的に挙げてください。歴史上の方でも、今の例えば政治家でも、或いは友達や身内でも結構です。
…。
ありがとう。様々だと思います。
僕は、感じるのは、教養豊かな人の話というのは自分のことはおいて喋っている気がします。目の前の人を思ったり、社会のことを考えて喋っている人の話を聞いていると教養があるなと思います。そうでないと単に知識をひけらかしているだけに感じてしまいます。
では、この社会を考える人の考えはどこにあるんだろう。どこから来たんでしょうか。
ここで、仏教的アプローチを試みます。今度は時間を逆転させて取っ払って取っ払っていく作業をしてみます。今まで身についた知識や教養を全部引っぱがす作業です。
仏教で言う座禅のようなものかな。インナートリップ、つまり自分の精神世界に入っていく。
そうやってもう何も取っ払うものがなくなった時に最後まで残ったものが僕は教養ではないかと思うのです。
知識や知恵は後から付いてくるものです。教養はそれ以前に存在し、知識や知恵を教養に変えていく触媒のような存在ではないかと思うのです。
そうすると、最後に残っているものはなんでしょう。それは、幼い頃に親から教えられたこと、根源的な問題で叱られたこと、そんなことだけが残っていく。
親が教えてくれたこと、彼らが教えてくれたことは、人として当たり前のことばかりでした。
嘘をついてはダメ、ご飯は残してはダメ、仲良くしなさい、身勝手なことは慎みなさい。
それらは全て自分を捨てて先ずは人のために尽くしなさいなんです。
それらがあって初めて、知識や智恵が教養になっていくのではないのかなと思います。これを根本においておいて、その上で出口会長の仰る三智を実践していけば、教養の絶対量が増えていくのではないかと思います。それがなければ単なる知識の継ぎ足しで、それはコンピュータにでもできることです。
僕は、子どもには徳育がやはり大切な気がします。
良いものは良い、悪いものは悪い、やってはダメなことはダメだということを小さいうちから教えることで、ふくよかで豊かな教養を持つ子が育ってくれるのではないかなと思います。
逆に言うと、ここがしっかりしていないといくら三智があったとしてもそれは教養にはならないと思います。
こうやって見ていくと、教養とは何か、教養を高めるというのはどういうことか分かってくると思います。
自分のためではない、社会的意義、社会への意識がなければそれは教養ではないのです。
昨日、近所の書店に行って、この本を手に入れたかったのですが、売り切れなので至急Amazonで手に入れ一読しました。タイトルは、「人生を面白くする本物の教養」となっています。最後まで読みましたが、今、僕が定義しようとしている、教養とは何か、教養そのものへの言及は残念ながらありませんでした。ここに書かれているのは、教養を高めるための方法論です。ですから、当然旅の効用であったりのことは書かれています。ただ、全部読み終わって初めの方を読み返すと、こう書いてあります。
ときどき、「教養を身に付けるには何冊ぐらいの本を読めば良いですかなどと言った質問を受けることがあります。そういう質問を受けるたび、私は、教養とは、「生き方の問題ではないでしょうか」と答えるようにしています。と書かれています。
私は、これまでの結論として、「教養とは、人が人としてあるべき他者をいたわる心情に積み重ねられていった知識や智恵の集合体である。」と定義したいと思います。
では、これで今日の三分間スピーチ終わりたいと思います。

今日の三分間スピーチ お題は、Miracle Worker 奇跡の人

当社では、毎日のアサカイ(朝礼のようなものですが、朝礼ではありません。)で、一人一人が三分間スピーチをすることになっています。或る仲間の発案です。まだ始めて三ヶ月ぐらいですが、良い感じで来ています。その順番には私もその一人として加わっています。

私の場合、毎日喋っていることがスピーチみたいなものなので、つまり、自分の気持ちを伝えるのが仕事だと思ってそれをしているので、今更私がスピーチすると、社員には説教のように聞こえるのではないかと思い躊躇しました。だけど、自分だけが楽するのもダメです。ということで、私の最初のスピーチは、これ、

「Miracle Worker 奇跡の人」でした。なぜ、これを選んだかというと、僕以外の社員の皆さんのスピーチが自分の家族、とりわけ子供に関することが多かったので、これを別の角度から自分なりに子供というものを語れないかと思い選んでみました。以下はその時の原稿そのままです。

皆さん、お早うございます。今日の僕のタイトルは、「Miracle Worker 奇跡の人」。奇跡の人って言ったら、もうおヘレン・ケラーと名前が出てくるほど、日本では知らない人はいないと思います。だけど、その原題の「Miracle Worker」 がヘレンケラーではなくアン・サリバンのことを指しているのだということはあまり知られていないのでしょうか。さて、

グッドモーニング、ダレン。ダレンはこの人のことを知ってますか。

あー、知ってますか。良かったです。彼女はアメリカ人だけど、イギリスでもきっと有名なんだよね。
彼女はね、戦前に日本に来ていますから、日本ではとても有名なんですよ。

さて、僕は初めて知ったのは小学生の3,4年の頃白黒の映画ででした。
ポンプで水をジャージャー流しながら、サリバンとヘレンが抱擁しあっている
姿は今でも覚えています。

人は、言葉によって世界を認識します。
1才半で視力と聴力を失ったヘレンは、その言葉を学ぶ手段を失ってしまったので、
世界を認識することができないままに成長したのでわがまま一杯に育ちました。
7才でアンサリバンとと出会ったときには、手に負えない状態でした。

当時のヘレンは、皮膚感覚しかないから、自分にとって心地の良い物だと
機嫌が良いけど、不快なものに関しては直ぐに機嫌が悪くなり、教育をするなどという
ことは凡そ出来なかった。

だから、人形を渡して手のひらにDOLLドールと書いても、
マグカップを渡して、手のひらにMUGと書いても、それが何のことなのか、
ヘレンにはさっぱり分からない、ただ自分の手を指がなぞっているだけ。
文字と物の関係が分からないから、世界を構築していくことができない。

君らも子育てをしているから、子どもの言語獲得には目をみはることでしょう。
生後三ヶ月ぐらいから喃語という意味の無い発話を繰り返しながら、最初にママ、パパという
いわゆる唇音、破裂音を獲得します。
1才でママ、パパ以外の耳、あんよ、ねんねとかの単語を獲得し、1才半で通常二語文を獲得します。ママ好きとかパパタッチとかね。
それからは一体どこに詰まっていたのか分からないぐらいの単語を獲得し、それを世界と結びつけていきます。

恐らく皆さんもそうでしょうが、小学生の頃に感動したのは、三重苦を克服したヘレンケラーに
対してでした。
しかし、自分自身が成長するにつれ、子どもをもち親となってからは、ヘレンケラーよりもそれを教え導いた、アンサリバンの方に興味が湧きました。
どうやって、教えたのか。

ところが、これが名場面で皆もよく知っていると思うけど、或る日、アンサリバンがヘレンを庭に連れ出して、ポンプを動かし、ヘレンの手のひらに水をじゃーじゃー浴びせながら、その手のひらにWATER って書く瞬間があります。

この瞬間に人間ヘレンケラーが誕生する。
そして、その後彼女はハーバード大学を卒業するまでになる。

この場面、ヘレンケラーが、言葉というものが何かを理解する一瞬があります。
それがこれです。ちょっと読みます。

The story my life.

Some one was drawing water and my teacher placed my hand under the spout
As the cool stream gushed over one hand she spelled into the other the word water,
first slowly,then rapidly.
I stood still,my whole attention fixed upon the motions of her fingers.
Suddenly I felt a misty consciousness as of something forgotten – a thrill of returning thought;
and somehow the mystery of language was revealed to me.
I knew then that w-a-t-e-r meant the wonderful cool something that was flowing over my hand.

僕が言いたいのは、言葉というものの不思議さと、その言葉を導き出すために存在したアン・サリバンの存在です。

人はことばによって世界を理解し、世界を自身の中に構築していきます。
教育とは人が本来あるべき姿に戻ることを手伝うことだと思います。アン・サリバンの役割はヘレンを本来のあるべき姿に戻してあげたという仕事。
僕は会社というのも小さな、スモールワールドだと思っています。
先に生まれた人間、先に言葉を獲得した人間の責任は重いと思っています。

きのわき

会社に雑務なんて仕事はない、はず。

会社内で、この雑務は誰がやる?じゃー、オレがやるよ。その代わりこの雑務は頼む。分かりました、私がやります。

なんて会話をしていました。

聞いていて、それはおかしい。会社に雑務なんてあるはずないし、あってはいけないのではないか。それに雑務と言われてそれを押し付けられた人間はどんな気持ちになるのだろうか、と妙な気分になりました。

きれい事ではなく、雑務はあってはならない。

もしあるとしたら、それは会社の事業目的に沿っていないもの、それが雑務なんだろうと思う。会社の事業理念に沿いながら、その目的を達成するための業務に雑務は存在しない。

もし存在するのであれば、それは整理し片付けるべき対象ではないでしょうか。

株式会社Dai 代表取締役 木脇和政

100歳の現役ジャーナリスト、むのたけじという人。

むのたけじ昨晩のNHK放送Eテレで、1915年生まれ、今年100才を迎えられたジャーナリストのむのたけじさんを見ていました。
むのたけじという名前は知っていましたが映像で見るのは初めてでした。
1915年の誕生ですから終戦時は30才。終戦を境に勤められていた朝日新聞を退社し、故郷の秋田で自ら新聞を発行し、現在に至るまで反戦を訴えてこられた方です。

映像で見る、その言葉の力強さにもうただただ感動でした。
そして、そのお顔が何とも愛らしくユーモアたっぷりでぐいぐい引き込まれました。

エンディングは彼の高校生に対するメッセージでした。
自分はジャーナリストとして多くの人間に会ってきたが、その中で自分が立派だなと思う人には共通点がある。その人達はどういう人かというと、
”自分に誇りを持っている人、自分を大切にしている人。”だったでした。
そして、なぜ立派かというと、そういう人は必ず他人を大切にするから、と述べておられました。
その話を聞いている高校生の顔を見ていると、彼の言葉は彼、彼女たちに届いているように思いました。

私は、経営者として、経営理念、事業理念を持つことが誇りを持つことの第一歩だと思っております。
そして、それを実現していくためには、人の何十倍、何百倍も努力に努力を積み重ねていかねばならないのですが、果たして自分はその精進を続けることができるのかどうか、毎日自問の日々です。

事業理念、事業目的は何のために存在するのか。

フランチャイズ事業部事業理念私たち株式会社Dai フランチャイズ事業部の事業目的は、「健全で革新的なフランチャイズ本部と事業意欲溢れる加盟希望者とのマッチングを最大化させる」です。
事業目的ですから、この目的を達成するために、私たちの事業部は存在しており、この目的のために社員は日々額に汗しながら働いているのだということになります。

では、何故このような事業理念があるのでしょうか。多くの企業が経営理念や事業理念を用意していますが、その理由はなんでしょうか。

私自身は、他社のことは分かりませんが自分自身を鑑みると、規範として作り上げているという意識です。そしてそれはちょっと大げさに言うとあたかも立憲主義における憲法制定のようなもので、事業部そのものがこの規範を逸脱することがあってはならないというべきもの、制約を示したものと捉えています。

個人による解釈の違いや、時代の変化による恣意的な解釈の変更を食い止めようと言うものです。ちょうど世間では、集団的自衛権の行使に関して憲法をどう解釈するかを揉めに揉めていました。それほど一度成文化したものは解釈が今度は問題になってきます。そういうこともあるわけですから、せめて文字に表して成文化しておこうよなんです。

私たちは、この事業目的を策定するに当たって、私たちがフランチャイズ、フランチャイズシステムと呼んでいる用語の定義を先に決定しました。

以下の通りです。

フランチャイズとは、社会に活力を与え、人々の生活をより豊かにする経営手法の一つである。」

この定義を実現させるためには、健全で革新的なフランチャイズ本部と意欲溢れる加盟希望者の存在及び両者の適切な出会いの場が必要です。
私たちは、この必要とされるものを提供することを業務とし、私たちが定めたこのフランチャイズの定義を確たるものにするために、日々、営為努力し、その結果としての社員に対する幸福追求や社会貢献を目指していかなければなりません。

さて、ここまで述べてきて、本題の、なぜ事業目的が必要かですが、それは雑念を払うためです。事業の目的を、「適切なマッチングの最大化」と決めたわけですから、もう他は考える必要はないわけです。こうしておかないと、人はどうしても他人の意見や、得意先の利益、目の前の利益や損失に目を奪われてしまい、いつのまにか目的を見失ってしまいかねません。それでは、困るわけです。そのために、そういった雑念を追い払うために存在しているのが事業理念、事業目的なんだろうなと私は捉えています。ここまで定義できると、あとは、考えるべきは最大化させるための方法であり手段です。ここに集中できます。

最後に。
留意すべきは、事業目的の上位には、法律、社会規範、倫理が存在しているということです。当然ですが、これらを無視した上での事業目的の遂行、成就はありえないです。

株式会社Dai 代表取締役 木脇和政

※本文と写真とは関係はありません。

神様になった気分、神様と一緒にいる気分。

知り合いが高層マンションに住むことになったと昨日聞いた。

高層マンション。
そう言えば、昔は憧れた。

摩天楼から見下ろす景色は自分を舞台の主人公の気持ちにさせてくれるし、朝日が昇り、曇った日に雲海でも下に広がろうものなら、まるで神様にでもなったような気分で天界から、地上界を見下ろしていた。

でも、最近はどうもそういう気分にならない。いくら見える視点を変えても、高度を高くもっていっても気分は高揚しない。

最近は、近場の山に登ることが多い。

同じ視点の変化だけど、同じ見下ろす雲海だけど、こちらは気分が落ち着く。

神様になった気分ではなく、神様が隣にいるような気分になる。

こっちの方が良い。

きのわき

 

記憶しないのか、できないのか。

記憶久しぶりに部下とお客さんのところに行った。

名刺交換が始まり、先方が社長お久しぶりですねと仰った。

え?

確かに見覚えのある顔、差し出された名刺の名前もどこかで拝見したような…。

僕のこの躓きが部下を動揺させてしまった。社長のこの体たらく、部下は辛い。

部下の辛さは相手にも伝わる。相手もどう対応していいものか。気まずい空気があたりを覆った。商談が終わるまで、ついぞ僕は思い出すことがなく、エレベータで階下に降り、玄関を出たところで、部下に尋ねた。

どなただったの?

すると、その方は僕はわずか数ヶ月前に会ったばかりの方であった。しかも訪問する前に部下は一度僕にそのことを伝えさえしていたというのだった。彼の口からいくつかの固有名詞を聞いているうちに、まざまざと記憶がよみがえった。

慌てて、元来た道を引き返そうとした。

部下は、どこに行くんですかと。

いや、今、まざまざと思い出したので、先ほどの件をお詫びに行かねばならない。このままでは、僕は思い出してないままの人間として記憶されてしまう。

部下は半分呆れながらも、その表情に憐憫の陰を宿しながらただじっとエレベータを見つめていた。

記憶しないのか、できないのか。多分いずれでもないのだと思う。

マリーへの伝言。

マリー当社にマリーという素敵な女性が入社してくれました。
つい最近の話です。

「五番街のマリー」と「ジョニーへの伝言」という曲を一緒に混同して、
「マリーへの伝言」という間違ったやつがいました。
遠い1970年代の話です。

新人のマリーには伝えたいことが一杯。
だけど、社員の中にはマリーにうっかり伝えるのを忘れてしまうやつがいる。
そんな時、僕はこの「マリーへの伝言」という間違った覚え方をしていた奴の横顔を
思い出してしまいます。