最善観の困難さ

「最善観」

をテーマに投稿したのは数日前。

しかし、このテーマについて早くも考えさせられた昨日の夕暮れ時でした。僕はあまり車の運転は得意ではないというか、どちらかというととても嫌いなんだけど、昨日はある用事があり仕方なく運転し京都市内を走っていました。

目的地付近に到着し、用事は30秒もあれば済むので路肩に停車し、運転席のドアを開けて外に出ようとすると、

ファァァァァァァァァァァァァァァン

という凄まじいクラクションの音。

慌ててドアを閉めて、バックミラーで後ろを覗くと、黒塗りのごつい車が来ていて、いかにもやばそうな男がクラクションを鳴らし続けています。

やっばいなーと思いました。
素直に謝ろうと思ったのだけど、クラクション鳴らし続けて、いわゆる威嚇状態。僕が急にドアを開けたので、そりゃ怒ってらっしゃるんだと思います。

降りていって、いちゃもん付けられて、胸ぐら掴まれてなんてのを想像しながら降りるのをためらっていると、クラクション鳴らしながら、こっちを睨み付けながら横を通り過ぎて行かれました。

こちらは、ホッですが、クラクションの音で周りには結構人が集まってきていたので、何ともばつの悪い感じでした。

用を済ませ、車に乗り込み、””思い出してました。

「わが身の上に起こる事柄は、そのすべてが、この私にとって絶対必然であると共に、またこの私にとっては、最善なはず。」

な、はず。な、はずなんだけど、だけど、そうは思えないんだよなー、これ。

これ、どう解釈したら良いんだろう。

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Comment

コメント一覧 (3件)

  • 初めてコメントさせて頂きます。
    最善観、とはモノの捉え方ですよね。
    黒塗りの車は威嚇という怒りの行動でも、結果としては事故が起きなかったという最善な事柄だった、という解釈になるのでしょうか。
    日々起きることを全て最善と捉えるのは難しいですね。

  • こんにちは、39さん。
    投稿のお礼すっかり遅くなって済みません。39さんが投稿されてからちょうど2年後世界はコロナ禍で苦しみに苦しんでいます。こんな世の中誰も想像しなかった。いや、一部には警鐘を鳴らされていたことも事実です。東北大震災の時もそうでしたもんね。
    さて、しかし事はおきました。
    > 最善観、とはモノの捉え方ですよね。
    はい、全くその通りです。目の前で起きていることをどう捉えるか。どう解釈していくのか。その先にあるのは世界とどう繋がっていくのか、いるのかだと思います。
    なかなかできませんが、喜びは分かち合い、悲しみは自分のところで一気に引き受けて止めていこうという勇気であり人生の矜恃にもつながっていく考え方だと思います。

  • 「最善感」は禅の言葉。
    目の前に起きていることに対して感謝するひたすら感謝するそういう考え方です。
    2年前の年末にメンバー全員で京都駅前にあるPHP行きましたけど、そこにある「根源の社」っていうのもやはりそういう思想ですね。松下幸之助翁が素直が一番難しい、素直になるのが人生の目標だと仰っていたけど、この感謝をするってのと同じことですね。
    感謝をすると素直にものが見えてくる。
    しかし、なかなかそれができない。
    感謝するっていうのはなかなかできない。
    素直だから感謝できるのか、感謝できるから素直なのか。
    写真は京都市右京区嵐山の天竜寺。「選佛場」僧が坐禅や起居する建物のこと。前を通った時、この過去に投稿した最善観と忘年会の時に皆さんと訪れたPHP研究所のことを思い出した。

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