「カボチャの馬車事件」、今回の事件。スルガ銀行も関わったと言われる。真偽のほどはどうなのか、どこまでなのか分からないけれど、スルガ銀行のHPには「シェアハウス関連融資問題」についてという案内がアップされていて、”相当数の社員が認識していた可能性が認められております。 ”とそこで言っているので、相当なんだろうなと想像します。
やってしまってるんだね。
怪しいと知っていながら、それが自分の利益になると分かっていたから黙認するってどうなんだろう。直接的な罪にはならないのかも知れないけれど、人としてどうなんだろう。
その結果、ローン地獄に落ちていく客がいることは、長年それを仕事としていた人たちはわかるわけでね。
福沢諭吉は、「学問のすゝめ」のようなベストセラーを出したり、この慶應義塾を創立したりと教育者の側面が強いけれど、他にも多くの業績がありますね。
明治の日本にあって西洋から多くの制度を取り入れたりもしている。
その一つに中央銀行の仕組みがあるし、自身もその設立に関わっている。諭吉はいわばスルガ銀行の親分である日本銀行設立の親とも言える。
その銅像、スルガ銀行ATMマシンの横で苦々しく思ってるような表情に僕には見えた。
論語嫌いで有名な福翁もこうつぶやいたのではないかな。
「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」と。
君子は正しい道かどうかで物事を判断するけど、小人は利益が得られるかどうかで物事を判断する。
孔子は、決して利益を得ることがいけないとは言ってないんだろうと思う。
ただ、道義にはずれて利益を得るのは良くないんじゃないかと。
人は弱いもの。上から言われたら仕方がない。組織がそうなっていたのだから仕方がない、と今後は多分そうなっていくのだと思います。
だけど、そうなのかな。たった一人でも、新人の行員であっても、これは人の道に外れてるって声を上げればこんなことは起きなかったような気がするのです。だって、みーんなおかしいって心のどこかでは思ってるに違いないんですから。
ちょっと、偉そうに言ってみましたが、銀行マンって割と襟を正さないといけない人たちなんだろうと思うわけです。
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コメント一覧 (3件)
あしかがだけではない。京都はもっとひどい。
隣近所
いまの僕にぴったりな内容です。
嫌だ、ダメだ、と分かっていながら、我慢する。
我慢してナンボの世界から、飛び出してきたのに
自分がすっかりそれに染まっていて、
声を上げないといけない場面で、
反応できなくなっています。
そこに確かにあるはずなのに
心理的な安心感や安全を信じられていない自分が情けなくもあります。
急にそういう意識を変われる自信は正直ないですが、日々過ごしていく中で、自然と声をあげられるようにはやくなりたいです。
[…] も物事は成就しない。 それは、あるべき企業の姿、あるべき経営の指針を表したものだと思える。 あのスルガ銀行の入り口の門には片方がなくなっていたか、朽ち果てていたのだろう。 […]