
私たちのフィロソフィーは「文化を愛し教養を育む。」です。
これ、フィロソフィーなのでそれで良いのかもしれませんがどうにも分かったようなわからないような言葉だなぁって自分でもそう思います。まずもってこれを解釈しようとすると、ではその「文化」とは「教養」とはなんだろうかという問いにぶつかります。言葉で言葉を説明したり定義するのはあまり意味がありませんし誤解さえ生みかねません。特にこういった抽象的な言葉はそうです。なのでそれは個々人で個人の体験なりを通していかようにも解釈されたら良いのだと思います。
ですが敢えてこの禁を破ってこのことばを風景としてとらえ、そのイメージ化された心象風景をふたたび言葉でスケッチするとこうなります。
「文化とは戦場に咲く一輪の名もなき花であり、教養とはその存在をかけがえのないものとして慈しむ心。」のようなものではないかと思います。
自分なりの定義としてはこうです。
ただ、これだけだとその花を慈しむことはできても守り抜くことはできません。
教養には意思の力が必要です、愛がそうであるように。
そう、私たちの掲げるはたらき方である「コーラルワーク」こそがその一輪の花を守るための戦略、ストラテジーなのです。

アミーゴ、アミーゴ。
フィロソフィー、フィロソフィー、私たちのフィロソフィー。
文化をあいし、教養をはぐくむ。
文化をあいし、教養をはぐくむ。
アミーゴ
文化って何?
文化って何?
例えば戦場に咲く名もなき一輪の花。
誰に守られずとも、誰に褒められずとも、それでもそこに咲く。
アミーゴ
教養って何?
教養って何?
その一輪を見つけ出し、
「ただの花」で終わらず、かけがえのない存在として胸に抱く力。
踏みにじられやすいものを、踏みにじらせない。
忘れられやすいものを、忘れさせない。
言葉を選び、まなざしを整え、手を差し伸べる力。
文化をあいし、教養をはぐくむ。
荒野のなかで一輪の花を見失わない心のさま、
あなたの場所を見守っていく力なんでしょう。
文化をあいし、教養をはぐくむ。
荒野のなかで一輪の花を見失わない心のさま、
あなたの場所を見守っていく力なんでしょう。
2025/12/14追記

アミーー、アミーー。
フィロソフィーー、フィロソフィーー、ノートル・フィロソフィーー。
文化をあいし、教養をはぐくむ、モン・クーーール。
文化をあいし、教養をはぐくむ、モン・アムーーール。
アミーー。
文化って何? オ・モン・アミーー。
文化って何? ディ、モン・アミーー。
例えば戦場に咲く名もなき一輪の花、
誰に守られずとも、誰に褒められずとも、
それでもそこに咲く、エ・フルール・ダン・ル・ヴァーーン。
アミーー。
教養って何? ケ・セ・ラ・クルトゥーーール?
教養って何? ケ・セ・ル・サヴォワーーール?
その一輪を見つけ出し、
ただの花で終わらず、
かけがえのない存在として胸に抱く力、モン・シューーール。
踏みにじられやすいものを、踏みにじらせない。
忘れられやすいものを、忘れさせない。
言葉を選び、まなざしを整え、
手を差し伸べる力、アヴェック・パシオーーン。
文化をあいし、教養をはぐくむ。
荒野のなかで一輪の花を見失わない心のさま、
あなたの場所を見守っていく力なんでしょう、モン・アミーー。
文化をあいし、教養をはぐくむ。
荒野のなかで一輪の花を見失わない心のさま、
あなたの場所を見守っていく力なんでしょう。
アロォーー、モン・アミ、トゥジューーール。

文化はあなたそのものであり
かけがえのない存在
けれど放っておけば
人は文化でぶつかり合う
楽しみ慈しみ合うのも文化なら
憎しみ蔑み合うのも文化
そのぶつかり合いを
より豊かなつながりへと向けて耕していくのが
教養だと思うんです。
