ーNoublie pas NAGASAKI.ー
当社では、一日の業務が終わったら社員全員が業務日報を書くわけですが、8月9日のある方のタイトルが、”Noublie pas NAGASAKI.”
フランス語だろうな、長崎についてのことだよな、なんでフランス語なんやろとか思いながら翻訳サイトの力を借りると、”長崎を忘れるな。”でした。
その日、8月9日は長崎原爆の日でした。その方の故郷長崎では、その日の午前11時2分になると、街中にサイレンが響き渡るそうです。しかし、その故郷を出て、京都に来てからは当然のことながら、その音を聞くこともなく、それで良いのか、今日は長崎原爆の日だよ、忘れないでほしい、風化させないでほしいという気持ちから、日報のタイトルに、Noublie pas NAGASAKIと打ったそうです。
確かに、8月6日の広島に比べると、長崎の扱いは全体に小さいようには、思う。僕はずいぶんとむかし、長崎の原爆資料館を見学したりして、午前11時2分で止まってしまった懐中時計や平和祈念像のことを今でも反射的に思い出すけど、世間的には風化の度合いは進んでいるように思う。
実際、どうなんだろうと近くの図書館に行って、各新聞を見比べてみたら、東京新聞以外は当然のことながら、各紙トップ扱いではあった。東京新聞は夕刊でトップ扱いだったけど、これは平和の祈りの後に記事を作るわけである意味正しい。
丹念に読んでいって、ハッとさせられたのは、「広島は最初の被爆地、そして長崎は最後の被爆地」ということば。決して、最初の被爆地、二番目の被爆地ではない、長崎は最後の被爆地なんだというコラム。
「平成最後の平和祈念」ということばも印象深かった。更にもう一歩昭和は遠くなる。
核の問題は軽々には語れない。語るべき用意もない。
その前日の8月8日には、辺野古への移設に反対していた翁長知事が急逝した。そして、その辺野古の基地を作るための埋め立て用土砂は僕たちが社員旅行を楽しんだ美しい森と海岸からなる奄美から運ばれてきているのだという。
今の世界の状況で核の抑止がなくなったら、どうなるのか。狂いたくても狂うことのできない母親を生みだす社会がまた現れるのではないか。
この頃になると目に付くことばが、
「怒りの広島、祈りの長崎」
広島が祈らないわけでも、長崎が怒らないわけでもないだろうけど、怒り続け、祈り続けることはまちがいなく大切なことだろう。
Nous n'oublierons pas Nagasaki.
知覧平和記念館では、大空に散っていった若者たちの遺書を見ることができます。
- 中村實大尉二十歳の遺書 -
飛行機を作ってくれ
君たちだけは信頼する
大楠公の精神に生きんとす
お母さん お母さん
今 俺は征く
母を呼べば母は山を越えてでも
雲の彼方からでも馳せ来たる
母はいい 母ほど有り難いものはない 母! 母!
Comment
コメント一覧 (1件)
”8月6日の広島に比べると、長崎の扱いは全体に小さいようには、思う。”
確かに原爆と聞くと多くの人が広島をまずイメージされると思います。
しかし一括りにしてはいけない。
また原爆被害だけでなく、空襲被害、戦災孤児、など様々な形で人の命を奪っていったことをそれぞれ正しく認識しなければいけないだろう。
丁度先週末、映画「火垂るの墓」を初めて観ました。
幼い頃、テレビで放送された際に冒頭で覚えた怖さと、両親に連れられて行った広島の原爆資料館で、映像を観るのはトラウマになっていました。
他の資料などは見るようになっても、「火垂るの墓」だけは観なければいけないと思いながら10年以上かかりました。
毎年夏になると戦争の特集番組が増えますが、自分の中で消化してしまうだけではなく周りと語り合うというのが必要でしょう。
また日本が受けた被害だけでなく、日本が与えた加害も。
自分も避けてしまった期間があったからこそ、これから勉強し続けなければいけない、周りを語り続けなければいけないと思っています。