排除アート、排除しているのにアートなのか。

むちゃくちゃ暑い夏の日の午後、横になりたーいと寝そべっても、身長170センチの私でも足がはみ出てしまい全く休めません。
取っ手に頭をのせてもダメ。
そもそも、公園はパブリックなものベンチで横になるなって意見もあるでしょうが、
誰もいないんだしそれはいいじゃんと思っても許されないのでした。
何となく今の社会の生きづらさに通じるような気がします。

先日、NHK Eテレの「日曜美術館」を見てたら”排除アート”っていう初めて耳にする名前が出てきました。排除とアートどうにも繋がらんがなと思ったわけですが、番組見てたらなるほどなって思いました。これをアートとして取り上げるNHK良いね。

アートをなんと捉えるかなんですけどアーティストがやったらアートなのかもしれませんね。
アートそのものが排除してはいけないものと定義されるものであれば矛盾するわけですけど、私はこれも一種のアートかなと思いました。

岐阜県のとある町をチャリで走っていてあまりに暑いので木陰で涼もうと思って公園内に入っていくとベンチがありました。近くで見るとどうにも変です。先日のテレビ番組を見てなかったらあまり気に留めなかったかもしれませんが、あぁ、これが排除アートなんじゃないかって気づきました。気づき出すと違和感たっぷりになります、だって変ですもんねこんなところに取っ手があるの。

ベンチはそれなりに古びた感じがするのに取っ手だけが新しくてこんなところに中央ではなくなんとも中途半端な位置につけてあります。しかもとても頑丈。こんな頑丈にする必要はあるのかってぐらい頑丈です。

普通に考えてこれはいわゆるホームレスの方がベンチで横になるのを「排除」してるんでしょうね。これを見て心地よく思う人はいないでしょう。だけど社会から排除しなければいけないのかもしれません。

排除に関して今日は私もセンシティブです。京都を一昨日出発して岐阜に到着。目的は採用面接でしたが結果的に採用させていただくというところまでは至りませんでした。夕方から夜中まで何時間も話しましたが採用させていただくというところまでには至りませんでした。これ言葉を変えていうと立場を変えてみると排除してるのかもしれませんね。そして昨日通った不破関なんていうのはこれも一種の排除かな、あなたは入ってきてもいいしかしあなたはダメと排除してるわけですよね。

これもそれもまぁ大きな括りで言えば排除かもしれませんが、公園のこのベンチはなんだか辛いですね。社会が人々を排除してしまってるからです。
排除しないことで大きな不安や心配を抱えていらっしゃる方もいるでしょう。正義漢ぶってホームレスの方にも優しくなどと簡単には言えません。
ただ、夏の暑い日木陰でそっと横になりたいですよね。それができない社会、そんな簡単なことが許されない社会、何となく今の社会の生きづらさに通じるような気がします。

ここ掴んだらベンチごと持ち上げられそうなぐらいがっちり留められています。

英語圏では、この排除アートのことを”hostile architecture”と呼ぶようですね。hostileの語源を探っていくと基本的には「敵意のある」「敵対的な」という意味を持つ形容詞で、語源はラテン語の hostis(敵)に由来し、英語では中世から使われている言葉のようです。”敵”なんですね。ただ、これはあまりに直接的すぎると言うことで”defensive”、”exclusionary”も使われるようです。ただ、日本語はアートと言ってしまってるので根本の思想が違うように思えます。

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