「和而不同」
”和すれどしかして同ぜず”と読むのでしょうか。
論語の、「子曰、君子和而不同、小人同而不和」これの前半部分がよく取り出されますが、全体を書きくだすとこのような感じなのだそうです
「子曰く、君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」
孔子さんが言わはりました。
君子、まー偉い人は和するけど、つまり人と協調はするけど、人に媚びたりその場に流されたりすることははしない。つまりちゃんと自分の意見を持っていてそれと合致していれば合わせるし協調する。しかし、間違っていると思ったら頑(がん)として合わせない。
一方、つまらない人物、つまり小人は自分自身の意見がないために、人に媚びたり流されたりはするが、それはその場だけのことだから、人と協調しているわけではない。
こんな小人になったらあかんよ、君子を目指しやと言っているのだと思います。
和という言葉が出てくると大抵の日本人は、「和をもって貴しとなす」という聖徳太子を思い出すのではないでしょうか。それほど日本人はこの「和」という字が好きで、そこから忖度なんていう今ではマイナスイメージとなった行為も自然と出てきたりしましたね。
因みに私の名前は和政……。
ちょっと話しがそれました。元に戻すと、最近この「和而不同」を声に出したくなるようなことが多いんですね。
組織論の話しに持って行きます。
そして、僕はこの言葉をもっと拡大解釈というか、すると、君子というのは何も特別な存在ではなくごくごく普通の人間のことではないのかなと思うのです。つまり、人は元々は和するものではないのかと。
なぜなら、人がそれぞれ持ち合わせた道徳に従って人生の活動を行えば自然と和していくはずなのです。良いものは良いし、悪いものは悪いというのは共通して存在しているので、あまり合わせようなどと思わなくとも結果として和します。そこに共通の言語とも言うべき倫理的価値観が横たわっているからです。
しかし、組織の力学はそれが発揮されるのを妨げるかのように働きます。いわゆる同調圧力を生み、特に新人の子などは容易にこれに絡め捕られていきます。失敗してはいけない、周りに迷惑を掛けてはいけないという生真面目な性格が、同調へ同調へと流れていきます。
特に新人の方は、業務内容もまだ十分に分からず、周りの先輩はそれをゆうゆうにこなしている様を見せられると、それに合わせないなどは、よほどのひねくれ者か、自分或いは自分の存在意義を持った強い精神力の持ち主でない限り不可能です。
本来、和して同ぜずであったはずの心が、同じて和せずに変化していきます。
そして、彼、彼女たちはやがてそこに取り込まれていつの間にか同調者側のメジャーグループに属するようになり、被害者であったはずが今度は加害者の側に回っていきます。
これは、いじめの構図と何も変わりません。
同調しなければマイナーリーグに落ちてしまいます。決して落ちないのに落ちると思い込んでしまってる。
では、会社はそれに対して用意はできているのか、いわゆる「心理的安全性」などの失敗を許容する文化やシステムはあるのか、そもそもお前自身ははできているのか、孤高の人たり得ているのかという自問は常につきまといます。
全くできていません。
ただ、そこに向かって歩むのみです。試行錯誤の日々です。
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コメント一覧 (2件)
「子曰わく、君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず。」の良い英訳が見つかりました。
http://blog.mage8.com/rongo-13-23
Confucius said, “Gentlemen harmonize with others and never flatter others. Worthless men flatter others and cannot harmonize with others.”
flatterというのは、おべっかを使うとか、おもねるという意味なので相当きついですね、agreeと訳しているサイトもあるのでそっちが近いのかなとも思います。そしてきついといえば、小人をWorthless menと訳しているのもきついですが、どうも中国語では小人というとこれぐらいの響きになるようです。なので、日本に来た中国人の観光客が駅の改札などで、大人、小人という表示を見るとかなり困惑されるのだとか。小人=乗る価値のない人間に切符売ってるんですからね。でも、これって本当ですか?聞きかじりです。
人に媚びない、同調圧力に負けないと口で言うのは簡単ですが、実際はとなると楽な方に流れてしまいます。思い当たる節がたくさんあります。
そうならないためには、ブレない軸を持っていればいい…それもまた言うは易し、ですよね。
同じて和せずになってしまっていないか、ふと違和感を感じた時に立ち止まって、自分の立っている場所を確認し続けるしかないですね。