気づき力はどうやったら得られるのか。

AL:、今週の記事ピックまとめ:2024/1/5/Fri.
毎週金曜日は月曜日から金曜日までにピックした記事のまとめです。今回はプレゼン資料トップにあるように全部で8つの記事を皆さんと一緒に振り返りました。資料の背景はこちらから拝借です。

なぜ、彼女は誤字を発見できたのか。その謎に迫る。

記事の振り返りに入る前に私がどうしてもやりたかったのが昨日の誤字発見プロセスについてです。プレゼン資料の記事ピックの前にそれを入れてひとしきり語らせてもらいました。
多分、かなり独りよがりな説明なのでほぼ皆さんには通じてないと思います。

先ず、話題のこの写真から。

一つ目の厄の列ですが、男性も女性も平成18年生まれの方が厄年になっています。しかし、年齢は違っています。このことに鹿団子さんは気づき、その後社務所に数字がおかしいことを伝えに行ったということです。
これはなんてことないことです。
「君はようそんなことに気づくねー、僕なんて絶対気づかへんわー」で終わることやと思います。
しかし、私はこの”気づくこと”に以前から興味があったんです。
世の中にはよく気づく人と気づかない人とがいますよね、会社でもそうです。
そして、それをに当てはめてみると気づく人はその業務を発展させていくことができますが、気づかない人はそれ以上の発展はないのです。
では、その気づかない人にどうやって気づいてもらうのか。
無理ですよね、だって気づいてないんだもん。

目次

スライド1.世の中には気づく人と気づかない人がいますよね。

決してわたしが気づく人間と言ってるわけではないですからね、そういう人がいるってことです。
そしてこれはすべてのことに気づいたら頭がおかしくなっちゃうので、気づかなければいけないことに気づくという意味です。気づかなければ行動のしようがありません、つまり仕事とゆう行動ができないんです。
気づく力って大切だって思うんですよ。
だからどうして鹿団子がここに気づいたかということに対してすごく興味があって、考察していきたいんですね。
まず、橿原神宮の看板の日本語はこれは日本語としては変じゃないです。誤字や脱字があるわけじゃない。
文章をチェックするときには校正と校閲があるけど、校正面では何も問題がない看板です。
論理矛盾や常識からの逸脱をきたしているので校閲面だとは思うんだけども、それでも気づくもんでしょうか。
ここにはがいっぱいあります。
一番大きく”紀元2684年”と書かれてるので人々の目はそっちに先ずいくからね。
今は2024年のはずなのにどうして2684年だろって思ってしまうとここに書かれている数字はある種の意味がある数字であって多少論理的におかしくてもそれは特別だからだと見過ごされると思います。

スライド2.そうやって考えていくと一番気づかせてくれるのはだと思うんだよね。

その場にいる人たちの当事者意識。
もし、平成18年生まれの人がこれを見るとすごく違和感あると思う。
妹の**ちゃんが高校1年生やから15歳かな16歳かな、彼女がこれを見たとしたら一瞬でわかると思うんだよね。
やはり、一番強いのは当時者意識じゃないでしょうか。
見つけた後に鹿団子はを管理している方にそれを伝えに行ってるよね。
これは当事者意識が具体化した姿です。
つまりこの不思議さはなんだろうを放っておけないというのと、これがもしも間違いであれば他の人も間違ってしまうかもしれないという他者への意識。
これが看板に入り込んでいったのでは。
それがあるのとないのとでは大違いでね。それがないと常に外界は風景になってしまう。
なぜ、鹿団子はこれに気づいたのか、その理由を知りたくて僕も昨日橿原神宮に参拝してきました。
人は人に対して自分に対してもだけどよく意識しろ意識しろって言います。でも意識していないものを意識すること
不可能ですね。意識できるのは意識の範囲内にあるものに対してしかできない。意識の範囲外にあるものを意識する
となんてできない。

スライド3.もしも鹿団子が誤字を探してやろうと思ってあの看板を観てたら、

それを意識してたら簡単に見つけることができたはずです。でも間違いがあると思ってないその状況で見つけることって通常はできないはず。
ではなぜできたのか。原因と結果を逆転させるとどうでしょうか。
結果はこの時に限ってゆうと事務所の人に誤字を報告したということです。
報告行為が時間的には後にあるんだけど、その後の行為が原因となる発見を導いたような気がするんです。
誤字を見つけようとゆう意識ではなく、間違いは人に報告しなければとゆう行動規範みたいなものが意識にスイッチ
入れてるんじゃないかと思えてくるんです。
ここが社会を意識することの大切さのような気がするんです。
社会に対して主体的に働いていこうとする。
これは意識できるんですね、そして行動もできる。
それを常に自分の中に持っておく。
それは意識だけども行動を伴った意識です。
それが自分の中に存在しているとき、行動が意識に影響し意識が行動に影響を与えるとゆう相互の関係が一人の人間の中に存在した時そんな現象が起きてるんじゃないかなって。

スライド4.年末で出てきた鷲山先生の(天職

なんてのもちょっとこれに似たような響きを持ってますね。
未来の自分(神)が自分を呼んでいる()。
それは現実に聞こえるわけではないけども、神が聞こえると言っているわけだから聞こえるに違いないと考え、今あることをベルーフ(天職)と考え労働に励む。自分自身の道徳や倫理観に従って労働に励む、そのことが近代資本主義を生んでいったとゆうマックスウェーバーの説ですね。鷲山先生は1つのパラドックスだと言ってたけど、要は原因と結果の逆転です。
では、そのような的でない人を考えてみましょう。そういう間違いを見つけたとしても事務所にそれを言うことやそういう手間を惜しんでしまう人のことを考えてみましょう。そういう人は誤字を見つける必要がないんだよね。見つけたところでそこで自分の中で完結してしまうので、それが修正されることもない。であれば見つからないんだよね。
未来が今の自分の行動を規定してるんだけど、会社も同じ。会社は人なんだから。
「会社は社会のために存在してるんだって意識」その意識は既に行動を伴っているので、その未来が今の僕たちを導いてくれる。鹿団子が誤字を見つけたように会社もなんかいろんなものを例えば危険なものとか、逆にもっと良いこととかを見つけ出すんじゃないだろうか。

スライド5.でも、逆にこういう人は、

自分のズボンのチャックが開いてることや駅にスマホを忘れていることに気づかなかったりします。
この理由も意識と行動の関係から説明可能ですね。
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