紫式部の本名って知ってる?

京都市右京区にある浄土宗の寺院、清涼寺。山号は五台山.
地元では嵯峨堂と呼ばれる。
源氏物語の主人公・光源氏のモデルになったと言われる「源融(みなもとのとおる)」の山荘・棲霞観があった場所。
源融の死後、この地に建てられた寺院がこの釈迦堂。

の本名はご存じでしょうか?
ついでに言うと同じ女流文学者清少納言の本名は?
おそらくご存じないことでしょう。
それもそのはず記録として残っていないので誰もわかる人はいないのです。

では、なぜあれほどまでに有名な人物なのに記録として残っていないのか。
そう、誰も残そうとしなかったからです、本人ですら。
当時平安のころ、女性を本名で呼ぶ人はごく親しい間柄の人、例えば父親であったり例えば母親であったりとかでした。それ以外の人が女性を本名で呼ぶ人はいなく多くの場合は通称であったり、成人すれば官職で呼ばれたようです。
紫式部で言えば”式部”はどう見ても官職だし、”紫”はそうですよね、源氏物語のヒロイン”紫の君”、光源氏のお嫁さんになってからは”紫の上”と呼ばれますが、その両方に共通した”紫”からのようです。

もしも、そういった習慣を無視して本名で呼んだりしたら、とてもはしたない行為で周りからはいみ嫌われたんではないでしょうか。

嫌われる、忌み嫌われる「諱信仰」ってやつです。これは古代、漢字文化が渡来してからもしかするともっと前からあったのかもしれませんがその原型的なものは、この「」つまりは人であったり物であったりもそうですけどそのものを口にすること呼ぶことを私たちは忌み嫌っていて今もそれはなんとなく私たちの精神のどこかに宿っているように思います。源氏物語で言えば今から1000年以上前の話ですが、この名前に関する私たちの感覚は今も昔もそんなに根本的なところでは変わってないんじゃないかという気がします。

そんなことを考えながら。

翻(ひるがえ)って私たちの会社の呼び名はどうなのか、その事情をお話しさせてください。

まず、この会社は役職名で誰かを呼ぶことはありません。誰も私のことをまかりまちがっても社長と呼ぶ人はいません。もちろん部長も課長ももチーフもありません。本名にさん付けが基本です。
田中さんであったり木村さんなんてになります。

しかしここである日疑問が湧きました、田中さんとか木村さんというのはいわゆる苗字であり氏と言うことになります。つまり家の名前です。

では、私は田中家の一員の田中さんと話をしているのか、木村家の代表の木村さんと仕事をしているのか言うと決してそんなことはないですね。
私は田中さん個人と話をしていて本人もそのつもりだと思います。私の中には田中さんが田中家の一員であるという意識はないのではと思うわけです。

では、 そんな家の名前で呼び合うのではなく個人を表す名前で呼ぶのが良いのでは?
そうなってくると個人を表すものは名前になってきます、いわゆるファーストネームってやつになります。
そういうわけで、私は最近ではほとんどファーストネームで呼ぶようにしています。

しかしここで困ったことが起きました、上に述べさせていただいたようなことです。

女性をファーストネームでは呼べないのです。

私はその方の父でも母でも夫でもありません、その私が気軽に女性をファーストネームで呼ぶことは避けなければなりませんし、私自身もなんとなく気後れがしてしまいます。そう、いわゆる私の中に根付いている「信仰」がそれを躊躇(ちゅうちょ)させます。

そこで、次に考えたのがニックネームです。

これ1番いいですよねクールですよね。源氏物語の主人公紫の上から紫というニックネームができてるわけで、これってむちゃくちゃセンスいいですよね。と言うところで現在は私たちの会社では私はニックネームでメンバーを呼ぶようにしています。

しかし困ったのは、私がつけたニックネームがどうも評判が良くないようだというのと、誰も私の名前をファーストネームでもニックネームでも呼んでくれないという現実です。

それとこの私の名前に対する感覚はいささか時代とはずれているようです。
実際、私の妻は下の名前で呼ばれてなぜかしらウキウキしてたりします。
私としてはそこでは”無礼者!”と一喝してほしいのですがその雰囲気はありません。

このままでは、私は時代に取り残されていくでしょう。

しかし、です。
考えてみると、ちょっと前に話題になったデスノートだって陰陽師だって名前がなければ成立しない物語ですよね。
つまり名前って何かを成立させるためのものでそれがなければは相手を呪い殺すことはできないし、私たちは何も考えることができないものなんですね。

あらゆる言語において、言葉の成立は固有名詞から始まり次に普通名詞が生まれていったようです。
私は誰だ何者だという確固とした個が集まりそれが普通名詞化つまり普遍化したときそれを人々は今までになかったもの新しい概念として受け入れてくれるのではないかと思います。
そのためには、最初に個、あなた、わたしが大切なのだと思います。

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