あなたの大切な日はいつから始まったの?

後宇多天皇りょう
京都市内西北部、いわゆる嵯峨野と呼ばれる田園地帯。緩やかな坂道を上り鬱蒼とした木々に囲まれた池の奥にその天皇陵はある。
京都市内に比べると標高差は100メートルほどしかないが妙に涼しい。
後宇多天皇という方がこれほどの英主であったことは後からわかった。

時間は一つじゃない

”時間は一つじゃない。”なんて見出しをつけると、まぁ普通はこれはの特殊相対性理論でも始まるのかなぁとか構えられそうです。
最近、と言ってもちょっと前かな、スカイツリーの展望台と地上とでは流れる時間の長さが違っていて展望台の部分、つまり重力が弱めのところは地上部分に比べて時間の流れる速度が速いことが実験によって証明されたりしました。 スカイツリーが高いとはいっても宇宙規模から見たら実にほんのわずかでしかなく、当然その重力差を肌で感じることなんてできないわずかなもの。そこに生じる時間差を計測できる時計の精度がとんでもなく素晴らしいものであるというのがどこかの記事に出ていたような気がします。

これは時間の流れは相対的なものであるという証明ですが、今日つくづくと感じたのは時間の始まり、この始まり方つまり紀元のことですがこれが一つではないよなと思ったわけです。”紀元”、わかりやすいところでいうと、歴史の教科書につきものの紀元前、紀元後の紀元です。
紀元前:BC(Before Christ)、紀元後:AD(Anno Domini)で使われる紀元のことです。
Before Christ、つまりキリスト生誕前の年ですから、これはわかりやすい英語です。
Anno Domini、いかにもラテン語だけど、Annoはきっと英語になるとAnnualのことでしょうから、一年とか年を表す単語ですね。そしてDominiは僕らIT業界ではよく飛び交う単語Domainの親戚でしょう。
”貴社のドメインは何になりますか?え、ですか、するとdai.co.jpなんですね、アルファベット3文字のドメインってそうそうないですよね、かっこいいですね。きっと創業された方もかっこいいんでしょうね”
って会話に出てくるドメインのことですから、領有とか領主とかつまりはここでは神のことでしょう。だから、BCは神様が生まれる前、ADは神様が現れている年となって、紀元を司るのは神の存在のあるなしということになります。

時間のもさまざま

さて、前置きはこれぐらいにして、またまた、アサカイのエピソードです。その日は、いわゆる天皇陵の前からでした。特にその日、その場所から参加することに必然性があったわけではなく、この後宇多天皇の陵があるところは京都でも北の方で山に近く、涼しそうだからという理由だけでした。

ただやってみて面白かったなぁと思うのは、その時の挨拶でした。
何年か前のブログにもこんなこと書いてるんですが、その頃と全く変わらんなぁというのが、面白がってちゃいけないんだけど人間も変わらないし会社も変わらない、でも意識することは大切なんじゃないかなって、そんなことを考えさせられたアサカイだったからです。

私たちのアサカイはその日のAL(アサカイ)が回していくわけですけども、この今からアサカイを始めるよって朝の挨拶はそのALさんの指名によって始まります。大抵の場合そうやって誰かを指名するとその方は、今日だったら“ 2022年7月27日アサカイを始めます!“と元気よく言ってくれます、元気じゃないときもありますが、それでもってやり直し!なんてことはありません。淡々とそこは進みます。
それからその日の朝会が始まるわけです。今日もいつものように始めたわけですけども、たまたま、天皇陵の前に立っていた僕は、おいおいちょっと待てよと、なんで西暦なんだよと、ちゃちゃを入れたくなったわけです(決して右寄りの発言ではないと思います)。
俺、今天皇陵の前にいるんだぞ、なのにそんなこと何も関係ないかのようにいつものように西暦って何なのさと思ってしまったわけです。しかもその指名された方は奈良から参加しているのです。奈良といえば、京都の偉そうな人だって一呼吸してから話しかける、飛鳥、白鳳、天平の地ではありませんか、その方が天皇陵がモニターに映っているのに西暦って……。
なーんか違うでしょ。いきなりだけど、僕らの事業は答えのない事業なわけです、いつものように誰かの真似をしていたらそれで食っていけるほどなまやさしいものではないのです。答えはあなた自身の中にある、そのあなたが周りの状況を感じないままに習慣的にやってしまって良いのか?僕らはその場その場に反応していきませんか。かかと上がってますか?

仕事ではそれ大切だと思うんだよね。だからさぁ天皇陵の前なんだから、紀元は皇紀で、それがわからなければせめて令和とかの元号でいかない? ねぇ、**ちゃん。

再び天皇陵から

内親王
後宇多天皇の后である姈子内親王陵
後宇多天皇陵からは約1キロほど南に下ったところにあり先の天皇陵に比べて周りは住宅街。
後宇多天皇陵と比べると作りは小ぶりだけど、その形式はほとんど同じではないかと思える。

それから3日後の今日、再び天皇陵から、正確に言うと皇后陵から。
ここは前回の後宇多天皇のお妃である姈子内親王の陵です。
実は、後宇多天皇のことがあまりよくわかってなかったので、アサカイ終わってから調べてみると、かなりの英明な天皇であったことがわかったのです。
そしてこの内親王とのエピソードを読んだとき、これは行かなきゃーと思ったわけです。
後宇多天皇在位の頃、当時日本は「両統迭立(りょうとうてつりつ)」の時代でした。いわゆる大覚寺統と持明院統の二つ、この両派から交互に天皇を出し合ってたというかそんな時代でした。そして、後宇多天皇は大覚寺派であり、将来のお妃である姈子内親王はライバルである持明院派の後深草上皇が目に入れてもいたくないとかわいがっていた愛娘だったのです。
その二人が一緒になったというだけでなんかとんでもないストーリーがありそうです。そして、お墓はこうしてお互いに1キロほど離れています。天皇陵における夫婦関係とはそういうものなのかもしれませんが、これを知ったときには、さまざまな空想がふくらみました。
生前のお二人のエピソードにはシェークスピアのロミオとジュリエットを想像しますし、お墓が別々であるというところからは、世界一美しいと言われるのタジ・マハールにまつられたお妃と、そのお妃をこよなく愛していながらも、幽閉された牢の中からその姿を遠く見つめるしかなかった王の話を思い出します。その世界一美しいタジ・マハールをつくったものこそ自分であったのに(これ話すととても長いので省略し、ご想像に任せます)。

*ただ、ここまで、歴史を無視してというか調べもせず全くの想像で書いているので決してこのままを信用してはいけません。念の為。

しかし、歴史書「増」によると、後宇多天皇は皇后である姈子内親王が急逝すると、儀のその日に出家したそうなので、これが歴史的事実とすると上皇は姈子内親王に対して深い愛情があったのはまちがいないのでしょうね。しかしロミオとジュリエットのようにその死が両家を仲直りさせるとまではいかなかったようです。

こちらが後宇多天皇と姈子内親王の陵に関する大体のあらましですけど、この陵墓をずっとたどっていくと最終的には奈良のに北接する神武天皇陵にたどり着きます。こちらの神武天皇が即位した日が日本という国の始まりの年、すなわち紀元となります。ですから今は皇紀で年代を言おうとすると即位した時が紀元前660年の1月1日(新暦2月11日)なので、今は皇紀2682年ということになります。

ですから、彼女にはぜひ、皇紀2682年7月27日アサカイ始めまーすって言ってほしかったわけです(決して右寄りではないと思います)が、今日僕がこの天皇陵に現れたときからきっと予想していたのでしょう。見事に言ってくれました。決して言わせたわけじゃなーないですよ。

今まで二つの紀元を見てきました。
キリスト教社会ではキリスト誕生の日が始まり、古来の日本というか戦前までの日本では神武天皇が即位した日が始まり。さて、せっかくですから世界三大宗教と言われる残りの二つイスラム教と仏教も見ていきましょう。

イスラム教では、ヒジュラ紀元というらしいですが、教祖ムハンマド(マホメット)がメッカからメディナに脱出した西暦622年7月15日木曜日を紀元年数の起算点と定めているようです。
どうして、この脱出した時が暦の始まりとなるのか、私は浅学にしてよくわからないのですが知っている人があれば教えてください。ただ、このヒジュラという言葉には地理的な移住という意味に加えて縁を断つという意味もあるそうなので、そこがキーなのかもしれません。

次に仏教、仏暦(ブツレキ)では釈迦が入滅した時つまり亡くなったときからそれは始まるようです。キリストの場合は誕生が紀元でそれはめでたいことってすぐわかるのですが、どうして亡くなるのがめでたいのか、なんか変な感じがしますが、それは多分に私たちが西洋的価値観に従っているだけじゃないかなって気がします。仏教的な考え方で言えば、亡くなることは悲しいことだけど、なくなること=成仏、つまり仏になることと考えたらめでたいことでもあるのだから、それを紀元として数え始めるっていうのもなんとなくわかります。

この仏暦、地理的にはタイやミャンマーでは西暦と並んで、もしかすると西暦以上に日常生活に溶け込んでいるように思います。街なかで見るカレンダーは時として仏暦のほうが大きく印刷されているからです。また、その同じ街なかでは釈迦が横たわっている仏像をよく見かけますね。多分あれは入滅した姿を表しているのではないでしょうか。日本の仏像が座っていたり、立っていたりするのとは対称的です。

さて、このように宗教によって紀元は違うようです。そして、この世界の始まりはその全てが宗教的な神話のようなもので始まっているので、これは世界の始まりと言い換えてもいいでしょう。
誕生から始まっている世界、亡くなった時から始まっている世界、移住(縁を切った時)から始まっている世界、そして即位した時から始まっている世界。

何をもって私たちの始まりとするかを見ていくと、なんとなく、今の世界に通じるような民族独特の価値観が見えるような気がしますね。

どこから始まるかはあなた次第

話は変わりますが、私たちの会社には結婚記念日休暇というのがあるんですが、この結婚記念日にも当然始まりがあるはずです。多くの場合籍を入れた日、結婚式を挙げた日のいずれかだろうと思います。実際、私たちの会社でも休暇日を設定するために申告していただかないといけないわけですが、全ての方がこのどちらかです。ほぼ半々のような感じでした。
でも、果たしてこの2つだけなのかなぁと思ったりします。記念日というのは先に挙げたようにその当事者がこれが記念日だと思って決めるものなのでこの2つに偏るのはどうなんだろうと思ったりします。
例えば、2人が結婚しようと決めた日、それがどういう状況かは分かりませんがそれなどが一番ふさわしい気がするんだけど、第三者は関係ない2人だけのことなので。

私たちはいつから始まったのか

最後になりますが、では、私たちはいつから始まったのでしょう。
それはおそらく会社の設立から始まっています。思いとしては創業のときかもしれませんが日にち的には創業と設立はほぼ一致しています。
私が会社を設立したのは1994(平成6)年9月1日ですから今は満28歳で、もうまもなく29歳を迎えます。
始まりを紀元0とするならば、今はDai歴28年となるでしょうか。

そんな私たちの会社が誕生したその同じ年に発刊された世界的ビジネス書があります。今でも読みつがれてきていて世界累計発行部数1000万冊とも言われているようです。本のタイトルは「」。ジェームズ・C・コリンズによる著書です。一度は耳にされたことがあるのではないでしょうか。
そこには有名なフレーズがいくつもあるのですがその1つに、”時を告げるな時計を作れ。”というのがあります。
時を告げることも大事、つまりいまこれをすべきだ、こっちへ行こう、あっちへ行こうという天才性のある経営者がそれを言えばたちどころに会社の業績は伸びていくでしょう。しかし、その時を告げる人がいなくなったらどうなるのか。コリンズは膨大な資料からその結論を導き出しています。
そして、時を告げる人がいなくなっても動き続ける時計がビジョナリー・カンパニーには存在していたことを発見しました。
その時計こそが企業理念のことでした。
こうやって作られた企業理念は、永遠に生き続け、たとえ時代が変わり今の製品やサービスが時代遅れになったとしても理念さえしっかりしていればまた時代に合わせたそれらを作り出す力を企業に与え続けたことを証明しています。

そして、ちょうど昨日のことですが、私たちはホームページを一新しました。そこにはまとめた形で企業理念がうたわれています。ぜひ一度ご覧いただければ幸いです。
また、私たちの会社では、入社前に読んでいただくがあるのですがそのうちの1冊がこの「ビジョナリーカンパニーvolume1」です。やはり会社設立の年に発刊された本ってそれだけでなんだか縁を感じますし、この本には本質的な何かをかんじるからです。

会社も時計を作り続け、この会社に集うメンバー一人ひとりも自分の時計を作り続けていってもらいたいと思った今日のアサカイでした。

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