最善観、いつも踵を上げておくことだと解釈しています。

「蓋棺事定」棺を蓋いて事定まる。人の生前の評価はあてにならず、死後になってはじめて定まること。
確かにね、生きているうちは、その関係者も生きているので利害がぶつかったりするので客観的評価は難しい。だけどそれからもっと年月が経ち彼らも全ていなくなった時に初めてその人の評価を定めることができるのかもしれない。

「最善観」という言葉があります。先日ある方に教えて頂きましたが良い言葉ですね。

森信三という、教育者であり哲学者である方が『修身教授録』という著書の中で説かれている言葉だとか。”修身”という言葉自体が時代を感じさせます。ともすると時代錯誤的に捉えられてしまいかねないです。

でも、そこにあることばの意味は、

「わが身の上に起こる事柄は、そのすべてが、この私にとって絶対必然であると共に、またこの私にとっては、最善なはず。」

ということだそうです。

これ、信じ倒せたら強いですね。これに一分の疑いも抱かず生きることができたら、不幸なんて存在しないわけだからその人生は幸せに決まってるし、もしもこれが戦う相手だったらこんな恐い、手強い奴はいない。

自分の目の前に起きていることは全て必然。だから逃れようがない。そしてその逃れようのないものは最善のことだというのだから、即受け入れることができます。一旦受け入れたならばそこに向かって営為努力しひたすら向かって行く。

絶対ポジティブ的思考で、これほど強いものはないですね。

目の前に起きたことに対して、瞬時に迷わず対応できます。考える必要ないし、ましてや悩む必要ないのですから、無茶苦茶スピード感でます。ビジネスにおいてスピードほど大切なものはないですから、これを実践できたら仕事もできる人になるのではないでしょうか。

僕はよく会社で社員の方々に向かって、

”いつも踵を上げていなさい”と言います。

これ、僕の口癖です。それはやっぱり仕事をスピード感もってやってもらいたいからな訳ですが、スポーツ選手的発想です。戦ってる選手って常に踵が上がってるって思うんです。相手次第で右でも左でも後ろでも前でもどこにでも瞬時に移動できるように、踵を上げてますよね。仕事もそうであるべきで、べたっと両足が地面に着いてたら、一歩スタートが遅れちゃう。そしてそれは致命傷になりかねないのじゃないかって思うわけです。

そして、もう一つこの踵を上げておくってのは理由があって、どちらかというとこちらの方が重要なんですが。

踵を上げておくっていうのは、意識的には心を上げておくってことなんです。

ある案件が来たときに、それをやるのかやらないのか、やるとしたらどうやってやるのかの判断は先ずは心が判断します。心が動くかどうかです。
動いた後には頭で理性的に判断、分析していけば良いのだと思います。

その最初の心が動くためには、その位置が高くないと動けないのです。

この位置は理屈では上がっていかない。

”心を磨く” というような抽象的な行為でしか上がっていかない。

その抽象的な行為を先人達は何とか言葉にしようとした。
具体的なその一つの方法として、先人が遺した最善観のような思想に接していくことは良いことなんじゃないかな。

良い言葉だな、最善観。しかし……。

ふと思います。この最善観は哲学者ニーチェが説くところの「永劫回帰」、「運命愛」と同じなのではと。永遠に繰り返される運命、これを愛し続けるんだという覚悟と目の前に起きていることを絶対良いことなんだって信じたおすことって、本質的には同じ。それを言うと茶道の世界でいうところの「一期一会」も今目の前のことを大切にすることなので、これもまた本質的には同じ。どれも強烈なポジティブ思考だ。
心が弱くなったときには人はニーチェを読みたくなる。僕はお茶はやらないけどきっと茶道にもそういったところがあるんじゃないかな。2022/05/29追記

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