波動感じるかい?

約160年前の京都。この痕跡はその時の波動を今に語っているかのようです。

今日のアサカイでは私たちはなぜ会社の財務諸表を全メンバーに公開するのかについて約1時間にわたって話しました。

これは私の勝手な思いだと自分でもわかっています。自分自身の固有の過去の経験から来ているものだとも自己分析してわかります。だからこれが絶対正しいわけでも、絶対に当事者にとって良いことであるとも思わないです。
ただ、自分の中では、この社会をほんの1ミリでも2ミリでも良くしたいそのためにやっているつもりではあります。わかってもらいたいなどとはそもそも思いません。会社と従業員では立場が違えば、生まれた環境も、世代も違います。まぁいつの日か人生振り返えってみて結果的に良かったなぁって思ってもらえるように最大限努力するだけです。

それが押し付けにならないようにそれが独善にならないように。

さて、そのアサカイの中である方が「波動」という言葉を使われました。その方は私たちの会社の顧問のような立場の方ですがわざわざ京都までお越しいただき二日間にわたってお話しさせていただきました。酒は美味いしやはりお会いすると良いわけです日頃のウェブミーティングよりも。

それはお互いに感じていたようで、そこから私たちが年に4回行っているGMの話になりました。どうしてそのようなことをしているのかと言う彼の問いに対して、私は即座に答えました「波動を感じるためです」と。
離れていてもウェブカメラを通して言葉はもちろん伝わります、美しい風景だってお互いに共有し合うことだってできる、リアルではできないデータの共有だって即座にできる。

だけどそれはデジタルデジタル化されてるんです。デジタル化と言うと安直なんだけど、データ量は多いのに妙に浅いんです、浅いがゆえにすぐ忘れてしまうような気がします。

それに対して人間と人間が直接会って、何も会話せずとも商店街をぶらぶらと一緒に歩いているだけで何かしら感じるものがあります。

不思議です。

この不思議な感覚って、これは大切にしなきゃいけないって思うんです。この感じる力を大切にしなきゃって。

そして、考えようによっては私たちは年に4回しか会わない、1泊2日ですから365日のうち8日間しか会うことがないので普通の会社勤めの方に比べるとお互いに余計に感じ合う力が繊細になってるんじゃないかって思うんです。

私はその時その波動を感じるためにはできるだけ自分を無にするというか、これが一番表現としては適切なんだけど無にするなんてできないし無ってなんだって言うこともあるんですけどとにかく邪魔なものを減らし目の前の人の波動を感じるためにはしょっちゅう会ってるよりも、たまに会う方がいいのではないかと。

私たちで言えば3ヶ月ぶりに会うと、その時にはよりアンテナは研ぎ澄まされているのかなとゆう気もします。

私たちは毎朝アサカイなどで顔を合わせ、情報交換はしています。しかし、その情報はお互いの身体が持つ全情報量の数百分の1、或いはそれ以下ではないかと思います。
だからこそというべきか、それゆえに、限られた情報量だけでやり取りされるX(旧Twitter)のような場では、波動を感じることが難しく、しばしば炎上が起きてしまうのかもしれません。私たちは本来、相手の表情や仕草、声の抑揚や空気感といった、目には見えない波動を通じてお互いの善意を育んでいるんじゃないかと思うからです。

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