独立。

お盆を利用して、高知市にある「自由民権記念館」に行ってきました。高知市立の記念館です。存在は知っていたのですが、なかなか今まで行く機会がありませんでした。

思えば、中学、高校の歴史の授業の時から、私たち日本人は自由民権という言葉自体は知っているわけですが、
言葉として、”板垣死すとも自由は死せず”は知っているわけですが、
「自由民権記念館」というそのものずばりという建物が、その高知にあるなんて、実は私は最近までは知りませんでした。

土佐と言えば、坂本ですし、もう龍馬は国民的アイドルなわけですが、その彼が志し半ばで斃れた後も土佐では、龍馬の意志を継ぎながら別の形で、自由民権運動という形で、この国の形を模索している人たちがいました。

明治の初め、日本は維新国家となりましたが、江戸幕府が幕末に結んだいわゆる不平等条約によって、完全に独立した国家とは言えない状態でしたし、中国を蚕食し始めた欧米列強の食指は目の前まで伸びてきていました。

征韓論に敗れた西郷が下野し、明治10年、彼の西南戦争が終結してからは、不平士族の不満が武力の形で現れることはなくなりました。
これによって、一応日本は安定した国家となったように見えますが、これも表面的なものにすぎませんでした。
独立した国家としてのが何も整っていなかったからです。

この自由民権記念館で、私たちは幸運にも記念館館長のガイドを受けることができました。高知大学で自由民権運動を研究されていた方です。松岡僖一館長。
案内していただくのにこれ以上の方はいらっしゃいません。しかも熱い。あらん限りの知識を初めて館を訪れた見ず知らずの人間に、自由民権運動など板垣退助の名前ぐらいしかしらない連中に惜しみなく与えてくださいました。
幸せな時間でした。贅沢でした。偶然のいたずらにこれほど感謝したことはありません。

館長が館の案内を通じて、お話しされたかったのは、自由民権運動に身を投じた人々のエネルギーとその広がりであったかと思います。
二十歳そこそこの若者が原文で舶来ものの民権思想を解釈し、議論し合ったエネルギー。
土佐の山間で頻繁に催される夜学と称されたに参加するおびただしい人々の数。
何が彼らをそこまでの勉強に突き動かしたのか。
館長が話の途中で自嘲気味に、「高知の人間がこれほど勉強したのは、後にも先にもこのときだけでしょう。」と話されていましたが、それほどのエネルギーがこの一瞬に集まったというのも何だか不思議です。革命のエネルギーとは洋の東西を問わずそのようなものなのでしょう。

夜学で学んだ人々の思想は、やがて自由民権運動として全国に広がり、帝国発布という形に結実し、議会制度作り上げ、日本に近代国家としての体裁をあたえました。
この課程で、日本という国は軍備による国力とはまた違った形での国力が増したのだと思います。精神的な独立を果たしたとも言えます。

『東洋大日本国国憲按』を起草し、亡くなるまでの14年間暮らしたという植木枝盛の書斎部分が記念館の一部に移設されていました。
松岡館長の襖や欄間に対する微に入り細にわたる説明は見事でした。襖一枚にこだわった彼の気持ちを想像すると、憲法草案という崇高な作業には崇高な場所が必要なのだと考えたのではないかと勝手な解釈も自分の中では生まれてきました。彼がまさに今そこで全身全霊を傾け、国の将来を考え理想とも思える憲法に熱情を傾ける様子が目に浮かんできました。
わずか六畳ほどのその部屋で、2度の大戦を経た後の1945年の後に発表された「憲法草案要綱」でも参考にされたという植木の思想が生まれていったのだと考えると、彼の思想の確かさに唸らざるをえません。

そんな植木枝盛の書斎を眺めながら、彼が思い描いた国家としての独立などということを考えていると、弊社が運営しているフランチャイズWEBリポートというサイトのことが独立つなぎで連想されてきました。

一方は国家の独立、一方は個人の独立、一方は政治的独立、一方は経済的独立。
同じ独立でも主体者もそのレベルも違うわけですが、独立という言葉に込められた意志のようなものは同じに思えます。

他に依存せず、自らの力で道を切り拓いていく。その強固な意志こそが、国家であっても個人であってもそれを実現させるための大きなファクターであることは間違いないでしょう。

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