私たちにとってのオフィスって。

所在地なんて関係ないはずの、市ヶ谷の一点。

は、私たちの会社の東京オフィスが入っている「こくほ21ビル」です。住所は「東京都新宿区市谷田町2-29」、有楽町線市ケ谷駅の5番出口を出て2分ほど。見上げると、レンガ色の壁に小さな窓が並ぶ、ちょっと要塞っぽい建物です。

とはいえ、私たちの会社はフルリモートです。は北海道から沖縄まで各地にいて、この東京オフィスに毎日通う人はいません。ここはをする場所というより、会社概要に載っている住所の一つ、地図の上の一点にすぎない。正直なところ、私たちにとって事務所の所在地なんて、ほとんど関係ないんです。

それでも、なぜここに完全にする前に決めたのかと聞かれたら答えはあります。
駅から近い、家賃が手ごろ、見た目頑丈そうで安全そう、たまたま空いていた。
実に実務的な理由です。

もっとも、メンバーがこの私たちの会社にを決めた理由だって、たぶん、多分ですが、
フルリモート、給料がそこそこ、IT系でなんだか良さげ、たまたま求人募集していた。
実に実務的な理由なんじゃないかと。
いや、もしかするとこの私のブログを読んだから、っていう奇特な方が中にはいらっしゃるかもしれませんが、いたら手をあげていただけると嬉しいです。

でも私は、その実務的なもののどこかに、何かの裏打ちがあったんじゃないかと思っているんです。これはもう、私の人生観というか思考の癖のようなものです。

場所も人も、たぶん同じなんですよね。都市の構造というのは、古い時代からの流れが無意識にでも引き継がれている。そんな気がしてならない。だったら、所在地なんて関係ないはずのこの一点を掘ってみたら何が出てくるのか。試しに調べてみたら、話がどんどん広がっていきました。

目次

外堀をつくった土の上に立っている

まず、いきなり地名の表記でつまずきました。住所は「市谷田町」でケが入らないのに、駅は「市ケ谷」、街の呼び名は「市ヶ谷」。
住所としての町名は市谷田町、市谷本村町、市谷砂土原町と、すべてケなしの「市谷」です。一方、地域の通称では「市ヶ谷」とも書き、防衛省の市ヶ谷地区や陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地のように、施設名ではこちらがよく使われます。

ちなみに、オフィス最寄りの市ケ谷駅には、JR中央・総武線、東京メトロ有楽町線と南北線、都営新宿線の4路線が乗り入れています。少し歩けば、都営大江戸線の牛込神楽坂駅、東京メトロ東西線の神楽坂駅、JRの飯田橋駅も使える。フルリモートの会社が言うことでもありませんが、手前味噌ながら交通の便はかなりいいんです。

ところが、その駅名がまた割れていて、JRと東京メトロは大きいケの「市ケ谷」、都営新宿線は小さいヶの「市ヶ谷」。同じ駅なのに、事業者によって表記が違うんです。歴史をさかのぼると、市ヶ谷・一谷・一ヶ谷とも書かれていたそうで、音が先にあって、字はそのときどきの都合で当てられてきた地名なんですね。ちなみに「ヶ」は、もともとカタカナのケではなく、物を数える「箇(个)」の略字だと言われていて、だから「け」ではなく「が」と読むんだそうです。
「1ヶ月(いっかげつ)」とか「関ケ原の戦い」とか。でも霞が関は霞ヶ関でも変換しますね。面白いけど私たちの会社には外国籍の方で日本語を一生懸命勉強してる方がいらっしゃるので、このややこしさは辛いですね少し取れますが言葉は複雑なほどやっぱり味わいも出るんですよねだけどその味わいを感じるためには相当の学習が必要でそこが悩ましいところです、まぁこれは何でも言えますが。

さて、その市谷田町(イチガヤタマチ)は、江戸城の外堀の北側に沿って延びる町です。この町の成り立ちがまた面白い。隣の市谷砂土原町の町名の由来として、外堀端を埋め立てて田町の市街地をつくったとき、徳川家の参謀だった本多正信の別邸跡の土砂を使った、という話が伝わっています。市谷田町の遺跡の発掘調査報告書には「市谷田町と寛永13年外堀普請」という論考もあって、1636年の外堀工事とひと続きで生まれた町であることがわかります。

では、その外堀はどこに掘られたのか。中世、このあたりは牛込郷と呼ばれていて、東は長延寺谷という谷を挟んで江戸郷と接していたと推定されています。その長延寺谷こそ、のちの江戸城外堀。つまり外堀は、何もないところに掘られたのではなく、もともと「江戸」と「牛込」を分けていた自然の谷筋に沿ってつくられたわけです。

私たちの東京オフィスは、その谷を埋め立てた土地の上、中世の江戸と牛込の境目に立っている。駅が多くて便利なのも、外堀に沿った交通の要だからこそ、なのかもしれません。

目の前の道は、牛込の真ん中へ続いている

ビルの前を走っているのは牛込中央通りです。オフィスのすぐ前の市谷田町交差点を起点に北へ延び、大久保通りの牛込北町交差点を越えて、矢来町で早稲田通りにぶつかる約1.2キロの道。名前のとおり、牛込と呼ばれる地域の真ん中を南北に通っています。境目に立つオフィスの前から、牛込の真ん中へまっすぐ入っていく道なんですね。

「牛」です。日本で馬はなんとなく分かりますが牛は歴史的にあまり登場しないですよね。最初は十二支の丑と関係があるのかと思ったんですが、字が違います。辞書によれば、昔ここに牛を飼う牧場があったことが地名の起こり。日本人は牛を食べなかったはずなのに、と思ったら、当然のことですが古代の牛は田畑を耕し、荷物を運び、乳から「蘇」というチーズのようなものをつくり、皮は天皇の靴にもなった。食べるためではなく、使うための牛だったんです。もっとも、675年に天武天皇が牛の肉を食べることを禁じているので、禁じる必要があるくらいには食べられてもいたようですが。

牛込の一帯には、ほかにも古い気配が残っています。神楽坂の兵庫横丁の「兵庫」は戦国時代の牛込城の武器庫の名残だと伝えられていますし、神楽坂という名前も、市谷八幡などで神楽を奏したことに由来するという説があります。

隣人たちも、実務的な理由でここにいる

その市谷八幡、いまの市谷亀岡八幡宮は、東京オフィスから市ヶ谷駅のほうへ少し歩いたところにあります。社伝では1479年、太田道灌が江戸城を築くときに、西方の守護として鎌倉の鶴岡八幡宮から分霊を迎えたのが始まり。鶴に対して亀で「亀岡」なんだそうです。ただ、1312年に市谷の所領が鶴岡八幡宮に寄進された記録があることから、実は道灌よりさらに古い鎌倉時代の創建ではないか、という見方もあります。

その八幡さまの奥の台地にあるのが防衛省です。市ヶ谷台は、江戸時代には尾張徳川家の上屋敷で、明治に陸軍士官学校、戦時中には陸軍省と大本営陸軍部、戦後は東京裁判の法廷を経て自衛隊の駐屯地になりました。2000年に防衛庁の本庁が赤坂から移ってきたのも、広くて使える国有地が空いていたから、という実務的な理由です。持ち主と中身は時代ごとに入れ替わっているのに、武神の八幡さまが「江戸城の西の守り」として祀られた場所の隣は、ずっと守りと軍事の土地であり続けている。

台地の縁で、崖と堀に面した守りやすい高台。そういう地形は、どの時代の人にも「守りに向く土地」に見えるのでしょう。そして一度まとまった区画は、まとまったまま次の持ち主へ渡されていく。防衛省も、私たちと同じ種類の理由でここにいる。でもその「空いていた」の裏には、道灌の時代から積み重なってきた土地の来歴がありました。

理由は、いつも後からやってくる

こうして調べてみて思うのは、世の中のほとんどのことは後付けなんじゃないか、ということです。人は何かをしてから、あとでそれなりの理由をつけている。市ヶ谷のケがそうだったように、音が先にあって、字はあとから都合で当てられる。

この話、実は今年のはじめに「D.A.I」という記事でも書いています。フランスの三色旗の青と赤はパリ市の色、白は王家の色で、「青は自由、白は平等、赤は友愛」という対応はあとからついた俗説だった。あのとき私は「意味なんていつでも後付けやーん」と書き、「青は自由『だった』のではなく、自由に『なった』」と書きました。調べ直してみると、「友愛」が自由・平等と並んでフランスの憲法に書き込まれるのも1848年まで待たなければならなかったそうで、旗が先、意味はずっと後、という順番はやっぱり揺るがないようです。啓蒙思想にしても、啓蒙が革命を生んだのではなく、革命が自分を正当化するために「啓蒙」という系譜をあとからつくり上げた、という議論をする歴史家もいます。

ただ、全部がでっち上げかというと、そうでもない。人権宣言には、それ以前から出回っていた思想の言葉が確かに使われています。材料は先にあった。人はそれをあとから束ね直して、「これが起源だ」と言う。行為が先、意味づけは後。でも意味づけの材料は、前からずっとそこにあった。人間の都合で、そのあたりはないまぜになっているんですよね。

私たちの社名もそうでした。12年前に株式会社大出版社から株式会社Daiに変えたとき、選んだのは「ダイ」という音だけで、そこに何を込めるかは考えていなかった。それがお盆の墓参りでご先祖さんと会社の話をしているときに、D、A、Iという三つの文字がふと出てきて、Diversity、、Inclusionという意味がついた。三色旗に似ていると気づいたのは、そのあとです。名前が先、意味はあと。でも「D.A.I」にも書いたとおり、Altruismはで学んだとして、Diversityはコーラルワークという名前の中に、三つの文字はすでにそこにあったんです。

東京オフィスも同じです。駅近で家賃が手ごろだから選んだ、という行為が先にあって、外堀や牛込の来歴という意味はいまになって見つけている。しかもここは、フルリモートの私たちにとって、所在地なんて関係ないはずの一点です。それでも、その一点を掘ってみたら、外堀の土があり、江戸と牛込の境目があり、道灌の八幡さまがいて、古代の牛の牧まで出てきた。人が毎日通う場所に来歴があるのは当たり前です。でも、誰も毎日は通わない住所にまで、ちゃんと来歴が埋まっていた。

「D.A.I」の書き出しで、私は、ご先祖さんがいたからこそ私はここにいる、では、なぜここにいるの?と自分に問うて、「わかんないです。不思議としか言いようがないです。」と書きました。いまも答えは同じです。私たちの会社がなぜ市ヶ谷にいるのかと聞かれたら、駅が近くて、家賃が手ごろで、たまたま空いていたから。そして、その「たまたま」の下には、道灌や家康や名もない牛飼いたちが積み重ねてきた時間が、ちゃんと埋まっていたから。後付けだとわかっていても、その後付けの材料が土地に埋まっていたことに、私はちょっと感動してしまうんです。

建築史家の鈴木博之さんに『東京の「地霊(ゲニウス・ロキ)」』という本があります。どんな土地にも時を経ても消えない歴史やが堆積していて、それが次の使われ方を方向づけていく、という視点で東京を読み解いたサントリー学芸賞受賞作です。私の人生観を、きっとちゃんと言葉にしてくれている本だと思います。まだ読めていないので、まずはそこから。読み終えたら、この続きを書きたいと思います。

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