利他とメタ認知が鉄の檻を破る。
これから書くことは、とても偉そうなことであるということを初めにお断りしておきますとっても偉そうに語りますその自覚はありますですが必要なこと、私たちの働き方にとってはとても大切なことだと思うので、あえて偉そうに書かせていただきます
イノベーションは、利他とメタ認知から生まれるのではないかそんなことを考える出来事があったのです。
名刺の命が救われた。
大袈裟に比喩的に表現します。「名刺の命が救われた」のです。
今回、私たちが応援しているスポーツチームのスポンサーをやめることになった。スポンサーをやめる以上、当然、私たちの名刺に印刷されているスポンサー名やロゴは外さなければならない。スポンサーではなくなるのだから、それは当然のことだ、社会常識と言って良い。
いつも名刺の発注を担当してくれているメンバーは、すぐに動いてくれた。
今メンバーが持っている名刺にはスポンサーのロゴが入っている。このまま使い続けることは契約上よくない。先方はリプランディングも考えているようだ。早急に新しい名刺に差し替えなければならない
そう考えて、社内Slackで呼びかけてくれた。
すると、次から次へと名刺発注の依頼が入ってきた
私は100枚
僕は200枚
私は100枚
私も100枚
……。
その流れを見ていて、私は少し不安になった。そして、こう投稿した
「なーんか、もったいないなー、捨てちゃうんでしょ?」
しかし、その声だけでは流れは止まらなかった
さらに、私も100枚、僕も100枚
なぜ気づいてくれないのだろう。いや、私が言いたかったのは、単に「もったいない」ということだけではない。そこからその背後にあるものに気づいてほしいのだ。でも答えは言えない、言ってはいけない。私の立場でそれを言えば業務命令になってしまうからだ。
流れを止めるために、私は助っ人を頼んだ、別のメンバーがこう投稿してくれた
「これは相手側から、名刺を捨ててくださいと打診があったのでしょうか?」
この一言で、ようやく流れが止まった
担当メンバーはこう答えた
「捨ててほしいと言われたわけではありません。ただ、たとえ名刺が余っていても、スポンサーを抜けた後にロゴが入った名刺を配るのは違うかなと思っています」
ならば、みんな、いったん落ち着こう。
今回、スポンサーはやめたくてやめるわけではない、財政的に難しいわけでもない、事情があってやめるのだ
事情なので細かくは言えないが、関係する人たちはほとんど知っている。
私たちは、そのチームを応援する気持ちを失ったわけではない。できることなら、これからも応援し続けたいと思っている。であるならば、名刺を発注することは「業務」かもしれないが「仕事」は何だろうか
後日、担当メンバーがスポンサー先に話をしてくれたそうだ
「今回、残念ながらスポンサーは降りなければなりません。しかし、私をはじめ、会社のみんなが応援したい気持ちは変わりません。ただ、このままだとロゴの入った名刺を捨てなければならなくなります。私たちは応援をやめたいわけではありません。だから、今ある名刺を使い続けてもよいでしょうか。」と。
すると先方は、快く「年内なら使っていいですよ」と言ってくれたそうだ。
私は、その話を聞いて思った。これは、業務が仕事に変わった瞬間だと。
名刺の命が救われた瞬間でもあった。
ほんのわずかかもしれないけれど、地球資源も守られた。
未来の子どもたちに残せるものも、ほんの少しだけ増えた
ここで私が感じたのは、唐突かも知れないが利他と言う言葉だった。
利他というと、人に親切にすること、誰かのために自分を犠牲にすること、そんなふうに聞こえるかもしれない
しかし、私がここで言いたい利他は少し違う。
自分の都合だけで考えないこと
会社の都合だけで考えないこと
相手のことを思うこと
社会のことを思うこと
未来のことを思うこと
今回で言えば、スポンサー先の本当の気持ちを思うことだった。
まだ使える名刺を思うことだった、資源を思うことだった、地球を思うことだった。
自分より崇高な何かを思うことだった。
その利他があると「本当に捨てるしかないのか」という問いが生まれるのだと思う。
業務を仕事に変える問い。
業務とは、与えられたことを正しく実行することだ。決められた手順に従い、必要な処理を進めること。
場合によっては作業と言い換えてもよいかもしれない。
もちろん、業務は大切だ。日々それをこなしてくれているメンバーには感謝しかない。
業務がきちんと回らなければ、会社は成り立たないのだ。
しかし、仕事となるとそれだけではない。
仕事とは、その業務に疑問を持つことだ、問いを立てることだ。
そして、必要だと思えば自ら動くことだ。
今回のことで言えば、スポンサーをやめる、だから名刺からロゴを外す
これは正しい判断だった、誰も間違っていない
名刺を発注しようとした人も、発注を受けようとした人も、契約上そうするしかないと思った。
みんな真面目に、正しいことをしようとしていた。
だからこそ怖い。
会社では、こういうことがよく起きる。
誰も悪くない、みんなが正しく動いている。
それなのに、全体として見ると、どこかおかしな方向へ進んでしまう。
そして一度流れができると、もう誰も止められなくなる。
これが、マックス・ウェーバーの言う「鉄の檻」なのだと思う。
鉄の檻は、悪意によって作られるものではない。
むしろ、真面目な人たちが、決められた手続きを、決められた通りに正しく、粛々と進めるときにも現れる。
そこから抜け出すために必要なのが、利他とメタ認知だと思う
利他は、自分の外側に視点を向ける力だ
相手はどう思うだろうか。
社会から見ればどうだろうか。
未来から見れば、これは正しいだろうか。
そう考えることで、自分や会社の都合だけでは見えなかったものが見えてくる
一方で、メタ認知は、自分たちが今どんな流れの中にいるのかを、一段上から見る力だ。
「私は100枚」「僕は200枚」という流れの中で、いま自分たちは何をしているのか
本当に捨てるしかないのか
相手は本当にそれを望んでいるのか
契約を守ることと、資源を守ることは両立できないのか
そうやって一度立ち止まることができたとき、問いが生まれる。
そして問いが生まれ行動が起きた瞬間、業務は仕事に変わる。
イノベーションの最初の問いも、きっとこういうところから生まれるのではないかと思う。
イノベーションというと、新しい技術や大きな発明を思い浮かべるかもしれない。
もちろん、それもイノベーションだ。
けれども、始まりはもっと小さな問いなのではないか
本当にこれでいいのか、誰かが困っていないか、社会にとってこれは正しいのか、もっとよい方法はないのか。
常識を否定するのではない、その外側に、もう一つの問いを立てること。
そこに、イノベーションの入口があるのだと思うのです。
メンバーシップ型の強さと怖さ。
ここで、もう一つ考えたいことがある。
それは、メンバーシップ型の組織についてだ。
日本の会社や社会は、よくメンバーシップ型だと言われる。
ジョブ型、あるいはジョブディスクリプション型のように、あらかじめ仕事の範囲を明確に決め、その仕事に人を当てはめるのではなく、まず人が組織のメンバーになる。そして、その人に仕事が割り当てられていく。
これは日本の組織の強さでもある。自分の仕事はここまでです、と線を引きすぎない。
困っている人がいれば助ける、誰かの穴を誰かが埋める。
個人の力がそれほど強くなくても、チーム全体になると大きな力を発揮する。
今行われているワールドカップサッカーを見ていてもそれは感じられる。
2026年のワールドカップで、日本は競合相手にグループリーグを突破した。そして、ラウンド32でブラジルと戦うところまで来た。森保監督が指示しているのも戦う相手に応じて臨機応変に挑む力だ。この力で劣る日本が勝つにはそれしかないだろうとも思う。そのための戦術が実を結んでいるとも言える。
互いに補い合い、走り、守り、つなぎ、全体として戦う、個の力だけではなく、関係性の力で戦うこれが、メンバーシップ型の強力な武器だと思う。
しかし同時に、そこには危うさもある。メンバーシップ型は、協調性があり、チームワークが豊かであるけれど、ともするとその協調性は同調圧力にも変わる。
自分の心では少し違うと思っている、本当は一度立ち止まった方がいいと思っている。だけど周りがそう動いているから自分だけ流れに逆らえない。
今回の名刺の件も、まさにそうだったように見える。
みんなで動けることは強さである。しかし、みんなで流されることは怖さでもある。
では、その流れに飲み込まれないためには何が必要なのか。私は、一人ひとりが心の中に核を持つことだと思う。
自分は何を大切にするのか、何に照らして判断するのか、誰が見ていなくても、何を基準に行動するのか。
これがなければ、人はどうしても周りの空気に流される。
メンバーシップ型の組織は、うまく働けばとても強いけれど、心の核がないまま同じ方向に動き始めるとその力は同調圧力にもなる。
協調性だけではなんか足りないのだ。
協調しながらも、流されないこと。
チームで動きながらも、一人ひとりが問いを持つこと。
周りに合わせながらも、自分の中の核を失わないこと。
そのための実践が利他とメタ認知ではないかと。
社会を心の核に置く。
では、その心の核はどこに置けばよいのか
キリスト教のような一神教的な世界であれば、絶対的な神が自分を見ている、という感覚が行動の軸になり得るのかもしれない。
誰も見ていなくても、神は見ている。その信仰が、行動として現れる。
では、私たちは何を軸にすればよいのか
日本には、八百万の神という感覚がある。あらゆるものに神が宿るという世界観は、とても豊かだと思う。
しかし、絶対的な一つの存在が上から自分を見ているという形とは少し違う。だからこそ、私たちは「社会」を意識すべきなのではないかと思う。
自分よりも大きなもの
会社よりも大きなもの
今ここにいる人たちよりも長く続いていくもの
未来の子どもたちにつながっていくもの
その崇高な存在としての社会を、自分の行動の原点に置く
自分のためだけに動くのではない
会社のためだけに動くのでもない
社会から見て、それは正しいのか
未来から見て、それは恥ずかしくないのか
そう考えることが、メンバーシップ型の良さを守りながら、その弱さを超える道なのではないかと思う
私たちは完全テレワークの会社だ。
人々の行動を、目の前で管理することはできない監視することもできない。そもそも、そんなことをするつもりもない物理的にもできないし、思想としてもやりたくないのでこの働き方を選択した時点で捨てている。
ならば、どうするのか
その人の心に任せるしかない
誰かに見られているから正しく動くのではない
上司に怒られるから立ち止まるのではない
評価されるから問いを立てるのでもない
自分の中にある核に従う
社会を思う
未来を思う
自分たちが今どんな流れの中にいるのかを、メタ認知する
そうやって一人ひとりが自分の心に従い始めたとき、この会社は本当の意味で強くなるのだと思うし、このはたらき方で良かったのだと思えるし、そうなった時に私たちは社会のモデルになれる。
もちろん、利他という言葉は少し怪しく聞こえるかもしれない、人の思想に踏み込むような言葉でもある
だから、会社が「利他的であれ」と強制することはできない。
強制された利他は、利他ではない
同じように、メタ認知も命令して身につくものではない
「考えろ」と言われたから考えられるわけではない
「問いを立てろ」と言われたから問いを立てられるわけでもない
日々の小さな出来事の中で、自分たちが今どんな流れの中にいるのかを見つめ直す、
そんなことを続けるしかない。
だから私は、こういう小さな出来事を大切にしたい。
名刺を捨てるかどうかそれだけを見れば、とても小さな話だけれど、その小さな話の中に仕事の本質がある。
業務とは、決められたことを正しく行うこと。
仕事とは、その正しさを疑い、問いを立て、よりよい形に変えること。
そのために必要なのが、利他とメタ認知的なものなのだと思う。
そして、その根底に置くべきものが社会。
会社が本気で、社会のために存在しているなら、社会を思うことは、会社を思うことにそのままつながる。
そして会社を思うことは、自分たちを育てることにもつながる。
名刺の命が救われた。
小さな出来事だったけれど私はこの小さな出来事の中に業務が仕事に変わる瞬間を見つけたのでした。
今回、私は最後まで偉そうで、大袈裟なのでした。
いつも答えは言わないように気をつけています、社長が答えを言えばそれは間違っているかも知れないのに正しいものとして処理実行されてってしまうからです。私のように老いぼれで現場や実情を知らない人間がこれが答えだと言っていまえばこの船は沈没しかねません、そういった自覚もあったりします。
