
コーヒーの匂いはしない。
朝、PCを起ち上げ皆が待つ朝会に参加する。
お早う、おはようございます、という言葉が並んでいる。北海道から、沖縄から、京都から。みんな同じ時間に仕事を始めている。
でも、コーヒーの匂いはしない。
誰かが今日の朝イチに何を飲んでいるか、わからない。隣の人が今日機嫌がいいのか悪いのか、声のトーンや歩き方でわかる、あの感じもない。ランチを一緒にすることもない。
仕事終わりに、一杯どう?
これもない。
私たちはそういう会社だ。
これを聞いて「かわいそう」と思う人もいるだろうし、「合理的だね」と思う人もいるだろう。でも僕が気になるのはそこじゃなくて、私たちがいったい何を失って、何が残っているのか、ということだ毎日そればかりを考える。
キーボードの話をしよう。
そんな私たちのアサカイはPCがなければ始めたくても始められないわけだけどそのPC、Windowsのキーボードを見ると、Altキーってのがある。
ふだん、スマホしか触らない人やマックユーザーはこのキーの呼び方すら知らないだろう。
私たちの会社には福岡のメンバーもいるがきっとダジャレ好きの彼はこういうだろう、このキーなんのためにアルトね、と。
Alternateの略だそうで、「もう一方の」という意味だ。単体では何もしない、他のキーと一緒に押して初めてそのキーが本来持っていない別の機能が現れる。
博多っ子の彼はすかさず言うだろう、まるで僕のごたるけんね僕は普段はなんもしとらんように見えちょるやろけどやるときにはやっとっとよ、と。
もうそこらへんで良い。
Macにはこのキーがない、同じ場所にOptionキーがある。
機能はまったく同じなのに、名前が違う。なぜAppleはAlternateと呼ばなかったのか。なぜOptionと呼んだのか。そんなことを考え始めると、止まらなくなるし面白い話になると思うけど今回はやめます。
彼の声が聞こえてきます。
僕はオプションじゃなかけんね。
Alternateには代替という意味もあるようです。別の言葉で言えばSubstituteですね、何かの「代わり」。本体が戻れば不要になるもの。
彼の声が聞こえてきます。
僕の代わりは誰もおらんと思うばってん。
2020年コロナが来たとき多くの会社が「仕方なく」テレワークを始めました。私たちもそのクチです。会社は全従業員の健康と安全に配慮する義務がある(労働契約法第5条など)。遵法精神にのっとりテレワークを始めましたが決して仕方なくではなかった。
仕方なく始めた企業はコロナが収まると多くの会社が「やっぱり」オフィスに戻った。
AlternateではなくSubstituteだったからだ。
私たちが目指しているのは、そっちじゃない。途中からだし、後付けだけどね。
Alternativeという言葉には、既存の枠の外にある、別の次元の選択肢というニュアンスがある。比較される土俵に立っていない何か。哲学者フーコーはそういう場所を「ヘテロトピア」と呼んだらしい、知らんけど。
現実の社会の中に存在しながら、その社会の秩序とは異なるレイヤーで機能している空間のことらしい、知らんけど。
でもね、だから僕らのはたらき方はテレワークとは呼ばないんだ。
オルタナティブな何かヘテロトピア的なものと考えているからね。でも、名前はほしいからコーラルワークかな。
失ったものを数えてみる。
人間の感覚は五つありますね、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五つ。このうちデジタルで届けられるのは、視覚と聴覚だけだ。光と音は波だから、数値に変換できる。だからZoomもSlackも成立する。
残りの三つ——嗅覚、味覚、触覚——は、物質そのものかそのかけら、直接の接触がないと機能しないから画面には乗らない。
ということで、私たちは毎日、そのうちの三つを使わずに仕事をしている。
異常です。
はっきり言って。
じゃー、異常だよって居直る?
それでいいのかと問い直す?
どちらもいらない、そもそも何のためにその感覚が必要だったのかを先に考えたい。
考えたいと思っていたらその場面が訪れた。
突然、お経の話。
先日、葬式に参列してきました。無宗教での葬儀だったのでそこには僧侶の姿も読経の響きもありませんでした。私は故人の気高きその心とありし日の生き方を思い出しながら心の中で般若心経を唱えていました。
家に帰ってきてからその一節を思い出していました。
「是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意」
ぜこくうぢゅう むしきむじゅそうぎょうしき むげんにびぜっしんに
すべては空である、空であるがゆえに形もなく、感じることも、思い浮かべることも、意志も意識もない。眼も、耳も、鼻も、舌も、身体も、こころも、ない。
感覚への執着を手放すことで、解脱を目指す。
感覚器官としての眼・耳・鼻・舌・身・意、これを六根といいますが、あにはからんやテレワークやってる私たちに今あるのは、眼・耳・意の三つだ。
仏教僧でもない私たちはなんの修行もしてないのに六根のうちの三根である鼻・舌・身を失ってしまってる。シャレとも皮肉とも取れるこの現象下で私たちは仕事をしている、何度もいうが仏教僧でもないのに。
じゃあ、私たちは悟りを開くのか?
んなわけない、ただそういう働き方をしているだけだ。
仏道の修行者が何十年もかけて目指しているものの半分に私たちはリモートワークをしているだけで近づいてしまった。
アイロニーっぽく聞こえるだろうけど、実際そうだけど、僕はそれをアイロニーで終わらせたくはないんだ。
じゃあ残った「意」で何をするか。
コーヒーの匂いが嗅ぎ取れない会社で、私たちは何をしているのか。
結果だけ見ていたら、それはただのリモートワークだ。数字が出れば合格、出なければ失格。見えないから、見えるものだけで判断するしかなくなる。
でも私たちはプロセスを見に行こうとしている。あの人は今どんな状況で、何を考えて、どう動いているのか。それを想像する力が鼻や舌や皮膚の代わりに要る。
それって、結局、相手への思いだ。
「文化を愛し、教養を育む」というフィロソフィーを仕事の真ん中に置いているのはそのためだと思っている。
匂いも、味も、体温も共有できない。でも、同じ方向を向いて生きている人同士には、それとは違う種類のつながりが生まれる。それがどういうものか、うまく説明できないけれど、私たちはそれを作ろうとしている。
意図的ではなかった、理屈はあとでついてきた。
でも、偶然そこに立ってしまったなら。 残った眼・耳・意をどう使うかは選べる。
こころの次元でつながること。
それがコーラルワークのフィロソフィー「文化を愛し、教養を育む」の意味だと、私は思っている。
無眼耳鼻舌身意。
偶然そこに立ってしまったなら、そこから始めるしかないじゃないか。
