社会は陰で支えてくれている人がいる、きっと企業もそう。

四条烏丸の夕焼け
今日の夕暮れ時。良い感じだったのでパチリ。当社はここから南へ200mほど下がったところ。まだみんな仕事やってんのかな。

今朝のことでした。僕は大体会社に15分ほど前に到着する電車に乗るのですが、今日はギリギリの到着でした。

途中の乗換駅であるできごとがあり、到着が遅れてしまいました。

その駅で用を足しに洗面所に向かったのですが、入り口近くでのおばちゃんらしい方が腰をかがめて、泣いていらっしゃるというか、嗚咽を漏らされているというか、とにかく普通のエキナカの風景ではない状況にぶつかたのでした。

おばちゃんに近づいて、どうされたんですか、具合が悪いんですかとお尋ねすると、身障者用のトイレの入り口が開いた状態で、その中を指さされて、そこでしてるんですよ!そんなところでしてるんですよ!と怒りの口調で話される。

見てみると、便器の横に、大きな用を足したあとがありました。臭いも相当にきつく、思わず後ずさりしました。

とても用を足す気持ちにはなれず、電車に向かおうかと思いましたが、おばちゃんは、なんで!なんでこんなところにするのと叫び続けます。

僕はおばちゃんを落ち着かせようと思い、ここは身障者用のトイレで体の自由がきかない方が利用されるわけだから、弾みでそうなっちゃったんじゃないかな、俺も手伝うから一緒に掃除しようとと言ったのだけど、おばちゃんは立ちあがろうとしません。

言葉では、その時僕が感じた印象をうまく説明できませんが、なんでこのおばちゃんはここまで泣いてるんだろうと考えたとき、おばちゃんの嗚咽は悔しさからくるもののように感じたのです。
便器の横の汚物によって、自分の仕事が増えたからとか、面倒だからとかっていうのじゃない。何か自分の今までやったことが踏みにじられたような、もっと言うと自分の尊厳が傷つけられたようなところからくる怒りではなかったかと思えてきました。

とにかく、僕はそのままには出来ず声を掛けた手前、おばちゃん俺も手伝うよと歩み寄りましたが、まだまだおばちゃんは正気に戻ってくれず、こんなところでしてるんですよ!なんで、なんでなのと繰り返すばかりです。

おばちゃんが手に持っている掃除用のほうきやバケツを取って処理しようとしたのですが、一体どうやって処理したら良いのか分からないので、結局僕は何もせず、会社に遅れてしまうからとその場を後にしました。

これだけの話しです。

だけど、何とか、このこと言いたくて、会社の朝会()でこの話しをしました。会社とは、とは何も関係のない話なんだけど、僕はとにかくこの話をしたかったので、ありのままに社員の皆さんに伝えました。

すると、朝会(あさかい)の運営をしている子が、マナーの悪い人間はどこにでもいるという話しにもっていったので、あ、僕が伝えたいこととは違う、僕が論じたいのはマナー論ではないんだよと話しました。

凄く大げさな話しにしてしまっているかも知れませんが、きっとこのおばちゃん一生懸命トイレ掃除をやってくれてたんじゃないかなって思うんです。でもトイレ掃除って一生懸命やろうが、そうでなかろうが、あまり人が分かるものではないです。毎日毎日不特定多数の人間が何千人と利用しているところです。そこでの掃除というのは、どこまでやるかというのはその人の人生観によって様々だと思います。

そんな中でこのようなことが起きた。

おばちゃんは許せなかったんだと思うんです。今までやってきたことが、この一撃で粉々になったというか、踏みにじられたというか、そういうので今までの努力の糸がぷっつりと切れてしまったような。

そして、僕が会社でこれを話したのは、社会でもそうだけど、企業の中や学校や色んな組織の中でそのような思いで仕事に向き合っている人って当然だけど一杯いるんじゃないか。そこには普段はスポットは当たらない、だけど、その人がいなかったら今はとても居心地の悪いものになってしまっている。

一言では言えないのだけど、そんなこんなの状況を説明したかったので、決してマナー論とか道徳論ではないのだよと付け足したところ、朝会の進行をしてくれていた彼も分かってくれました。

どこに持って行きたいというお話ではありませんが、僕にとっては深く印象に残るできごとでした。

そして、不甲斐ないと自分を思うのは、会社に間に合わないからとおばちゃんに言って、或いは自分をだましてその場を去って行ったことです。9時から始まる朝会(あさかい)に間に合うことと、このおばちゃんと一緒に掃除をすることと一体どちらが人として大切なのかと、今になって思うわけです。

踵が上がってなかった!と思います。

ただ、その場を去るときには、おばちゃんありがとう。いつもきれいにしてくれてありがとう。おばちゃんがいつもきれいにしてくれてるから、俺ら仕事できてんねん、ほんまありがとうって言ったら、おばちゃんの嗚咽は少しやわらいで、こっちを少し見てくれました。

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コメント一覧 (2件)

  • 私の好きな言葉に「シンセ」という言葉があります。私自身が仏教徒かとかそういうことではなく、日々心がけたいことが、この一言に含まれているのです。「シンセ」は「心施」「身施」と書きます。心を込めるだけでは足りない、なので身を持って心を示せるようになりたいと思いながら、日々過ごしています。お話の女性は、他者が想像するよりはるかに辛い痛みを心におったかと思います。
    それでも、そこで気づいてくださった筆者様に随分と救われたのではないかとも想像しました。具体的に何かできずとも、声を掛けられたところが素晴らしいと思いました。
    女性は、辛い気持ちを抱えながら、それでも毎日また丁寧に掃除をしてくださることでしょう。
    社会は様々な役割を持った方に支えられ、こうして毎日穏やかに過ごせるのだと、改めて感謝したい気持ちになりました。
    「ありがとう」は誰にでも簡単にできる、「シンセ」だなと思いました。大切な気づきをありがとうございました。

  • こんにちは、滝野さん。
    コメントありがとうございます。
    私は、仏教徒ですが「心施」「身施」ともに知りませんでした。
    仏教で一番ポピュラーな単語はお布施でしょうから、そこから推察するに両方とも施すがついてますし、仏教のことばなんでしょうね。しかし、私は知りませんでしたし、しらなかったので使うこともありませんでした。

    そして、滝野さんのおかげでこのブログに書いた光景を今思い出していました。もう5年近く前のことですが今でもまざまざと思い出します。今は完全にテレワになっていますから、当時は毎日のように利用していたその地下鉄の駅もたまにしか訪れませんが、トイレの配置まで思い出しました。人の記憶は視角だけでなく、嗅覚、聴覚と同時ってのはかなり強烈に残りますから、ちょっと朝からなんですが、その時の汚物の臭い、おばちゃんの嗚咽、むせび泣く声と同時にとにかく悲しかったなーって気持ちがよみがえってきました。

    そしてそして済みません、コメントが今になってしまいましたが、それはこの滝野さんの書かれた文章がきれいだなーって仰る方がいて、それで気づいた次第です。

    > 「ありがとう」は誰にでも簡単にできる、「シンセ」だなと思いました。
    よくぞおっしゃってくださいました。何を隠そう、隠す必要など全くないのですが、私たち最近あるメールアカウント作ったんです。採用に使うアカウントとして作りました。それまでは私ならばkinowaki@dai.co.jpですが、採用に関わる人間の個人のアカウントで対応してたんですが、どうもそれだとこちらで共有するときにうまくいかないので統一したアカウントを作ろうってなったんです。

    その時、出てきた意見は、saiyo@dai.co.jp,hello@dai.co.jp,recruit@dai.co.jp,hr@dai.co.jp等々でした。しかし、それらは私たちの会社で働くことを希望されている方々とのやりとりをするには、どうにもドライなんです。よく言えば機能的なんですが、それ故に真剣味がなく思いを表していないって感じたんです。そこで私が提案したアカウントは”mirainonakama@dai.co.jp”
    自分では良いなって思って提案したんですが、皆さんにはなんやかんやと理屈を付けられて反対ばかり。
    しまいには僕もなんだか腹が立ってきて、反対ばかりではちっとも先へ進まない、反対するのであれば対案を示すのが大人だろうと言い放ったところ、翌日彼らから提案されたのが”arigato@dai.co.jp”でした。
    良いです!
    ”「ありがとう」は誰にでも簡単にできる、「シンセ」だなと思いました。”
    おっしゃるとおりと僕もことばはしらなくともそう直感しました。


    冒頭、私は仏教徒であると言いましたが、仏教そのものは宗教というよりも哲学であるように思っています。ですから仏教徒ということばが相応しいかどうか分かりませんが、仏教を愛するものとしての仏教徒ではあると考えています。

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