2022年1月、Blogタイトルを”三智に学ぶ”から”コーラルワークにしました。” ボタン

写心。

ニューサイラン(carnation):花言葉は”素直”
この花の読み方がふるってます。
なんでもこの花の原産地はラグビー世界最強オールブラックスを有するニュージーランドなんだそうです。そしてその国を漢字で表すと”新西蘭”なんとも美しい漢字です。ニューを新と当てて、西蘭でジーランと発音させるのでしょうか。
そしてそして、それを花の名前に持ってくるときには、新だけをニューと発音させ、他はサイランと音読みにし、それをくっつけて”ニューサイラン”
肝心の花言葉は、すらっと真っ直ぐに伸びたその姿から、「素直」。
スラッ!真っ直ぐ!ってのが花でも人間でも、そしてでも素直を表しますね。

は写心ではないかと思う。

昔と違って、写真は誰でも撮れてしまうのが今です。

一昔前は(それより前は分かりません)、フィルム時代は結構大変でした。オートフォーカスなんてなかったのでピントを合わせるのが先ず大変。シャッター押せばそれだけで写真が撮れるなんてことはなかった。そして、ピントはあったとしてもシャッターを押せばそれは銀塩フィルムにその像を閉じ込め、現像処理をして像を現し、それからそれを印画紙に焼き付けないと、人々の目で鑑賞することはできなかった。
時代にもよるが、シャッターを押してから目にするまで早くても翌日まで、約一日、二日はかかっていた。デジタルではないので一回焼いたら元には戻らない。フィルム一本で36枚が限界。
時間も費用も掛かったのが写真でした。

限られた人しか撮れなかったので、それなりに選ばれた人だけが写真を撮っていた。だから彼らは選ばれた者としてそれなりの技術も有していた。

しかし、今は違いますね。誰でもスマホをさっと撮りだしてすぐに撮れてしまう。

そんなに簡単に撮れるようになった今ではあるけれど、そうであるだけに、技術以外の要素が写真の出来の善し悪しを左右するようになったようです。

”一歩踏み込んだ写真”

これが良い写真のように思います。そして、一歩踏み込めるかどうかは、その時の自分の心次第。

心が前に行きたいと思うのか、思わないのか、それ次第で足が一歩前に行く。

だから、そこには自分の心が写っているって感じるんです。

一歩踏み込むのは、そこに近づきたいという衝動のようなもの。衝動に突き動かされ撮られたものは何かしらこっちにも伝わってくるものがあります。

そして、その衝動、つまり楽しい気持ちは被写体にも伝わっていくので、時に笑顔を時に驚きの表情を与えてくれます。

そんなこんなで、できるは写真撮るのがうまい。これ、僕の持論です。
彼らは被写体の気持ちに入っていきますからね。

写心のことをずっと思っていてやっとここを尋ねることができました。

  • URLをコピーしました!

Comment

コメント一覧 (4件)

  • 写真は写心、言い得て妙だと思います。
    “一歩踏み込むこと”は人の心を動かすことができるという内容にまさに感動しました。

    ずっと受け身の姿勢では得られるものは多くありません。
    人は変わらないことを好む生き物ですが、私は常にもう一歩踏み込み、変わることを恐れずに歩んでいきたいと思います。

  • こんにちは、ローザさん。
    はい、そうなんです。一歩踏み込むことは人の心を動かすことに近づきます。しかし、だからこそといいますか、強いしっぺ返しも受けてしまいます。良かれと思ってやったことが恨みを買ったりもします。やらないほうがよかったと、踏み込まないほうがよかったと後悔することも多くあります。
    そんなときには、答えを今に求めないようにしています。
    できるだけ長い時間で見ていたら今買っている恨みも帳尻としては合うのかなあと。
    今、コロナの時代、人は頑張って変わっていかなければならないと思います。
    力強いコメントありがとうございました、ローザさん。

  • 山形県酒田市にある「土門拳記念館」を訪問した。
    当たり前だけど、写真は絵画や彫刻と違い被写体がないと成立しない芸術作品。絵画や彫刻は想像だけでイメージだけでつくり上げることができるけど、写真は、言ってみれば3次元のコピーなんだと思う。しかしそのコピーが光と交わることで作家の創造性が反映される。 優れた写真は、土門拳がもともとは報道写真からスタートしたっていうのもあるかもしれないけど、優れた写真は時代をきれいにコピーしてくれてる。きれいにすくい取ってくれていて、自分には見えていなかったものが、さー本当はこんな物なんだ、本当はこんな人なんだと教えてくれている。

  • 英語の”Photograph”は”photo(光)”と”graph(描く)” から作られている。実際そうだと思う、写真は光の芸術というか光によって作られている。日本語に訳された”写真”にあるように別に真実を写してるわけではない。これは最近のスマートフォンのカメラ機能を見ていてとても感じるところ。アップルが”コンピュテーショナル・フォトグラフィー” なんて言葉で自分たちのカメラ部分の開発を表現してるけど、実際そうなってしまってる。iPhoneで撮った写真はもう何も手を加えようがない。自分の脳の中、人々の脳の中にある世界ってこういうのでしょって示してくれている。現実と脳の中のイメージは違うけど、どっちが現実だと言うと 脳の中のイメージでしょう。つまりやはり写真って心が現れたもんじゃないのかな。

コメントする

目次