当たり前だけど、個人の集合体が会社。個人があって初めて会社。

春の訪れを告げるネコヤナギ
ネコヤナギ・春の訪れ

数日前、個人の権利と、会社への貢献や義務について考えさせられることが自社内で起きました。

これは自分自身とても意識しなければならないことだし、社員にも考えてもらいたいのでブログにします。詳細を書くと特定されてしまうのでぼやかしします。ぼやかすことで焦点がぼけますが、それは仕方ない。

前提として、私は現場にはいませんでした。

取引先の会社さんが当社にいらっしゃったそうです。

当社の社員二人が対応したそうです。

あることが起きました。二人のうち一人はそのことが嫌だったそうで、本当は断りたかった。だけど、ここで断ってしまっては会社に迷惑が掛かるかもしれないし、雰囲気的にも乗せられたというかそんな場になってしまったので、それは断らなかった、或いは断れなかったんだそうです。

そのことを、私は業務日誌で知ることとなりました。日誌には簡単な記述しかありませんし、そのことを断りたかったとは書いてませんでしたが、何となく私はその時の状況が想像されました。

そして、その日誌へのコメントとして別の上司が、その行為を肯定し、会社に貢献してくれたと褒めるようなことを書いていました。

ここから先は、理想だし、ええかっこしてると言う気が自分でもしますが、私はその上司の行為を叱咤しました。

日誌をよく読みなさい。決して本人は本意ではないのではないか。自分の意思ではなく、その場の雰囲気に呑まれ、或いは会社のためにという気持ちから相手の要求を受けたのではないか。仮にそうだとしたら、君のコメントはとても罪作りなことになってしまう。
会社は何のためにあるのか。もっと考えなきゃだめだ。売り上げを伸ばし、利益を出すことは当然のように追求しなければならない。だから、会社に貢献した人間をほめるのは良い。しかし、その前に、社員は一人の個人であるということを強く認識しなければならない。
その上で、それが分かった上で、会社にとってどうしても必要なことであれば、依頼なり命令をすべきだ。そうでなければ、個人は会社の犠牲になってしまう。これは些細なことかも知れないけれど、事の大小ではない。
こういったことが意識できなければ上に立つ資格はない、というようなことを話しました。

とても建前論のような言葉です。現実は個人が犠牲になる現場はきっと多くあることでしょう。犠牲というと大げさだけど、会社の目的のために個人が我慢を強いられることはいくらでもあるでしょう。しかし、会社としてそれが分かっていて受け入れるのと、何も気づかず他人や部下の痛みが分からずに受け入れるのとでは雲泥の差があるのではと思います。

会社は何のためにあるのか。私自身一生のテーマだと思います。

人は何のために存在するのか、何のために生まれてきたのか。

株式会社Dai 代表取締役 木脇和政

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